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「フラットな対話」と称するコミュニケーションに隠された「暴力」を考える

それ、本当に「フェア」ですか?

主張する力を奪われる

おれじゃない、と与田正は言っただろうか。/しかし、やったのにやってないと言うのが、与田正なのだ。(今村夏子「嘘の道」、『群像』2020年10月号 63頁)

今村夏子が先日発表した「嘘の道」は、街中の人々から不当に実際以上に嘘つきだと見なされている与田正という少年を物語の中心に据えた短編だ。この物語では、やがて重大な事件が起き、与田正がその実行者であるという噂が流れるようになる。読者はその流れを彼の無実を知りながら読み進めるのだが、そこで現れるのが上に引用した語りだ。

「やったのにやってないと言うのが、与田正なのだ。」

これは、街の人々の(偏った)認識を表す一文である。そのような認識を街の人々が共有する限り、与田正が「やっていない」といくら言っても、それは自動的に嘘と認識されることとなる。しかし、だとすると、与田正はいかにして「やっていない」と伝えることができるのだろうか? この街において、与田正は「やっていない」と主張する力を奪われてしまっている。

ある思い出が頭をかすめる。中学生のころ、同じ学年の生徒たちでプールの清掃をさせられたときのことだった。

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清掃が終わり、体育教師が生徒たちに向けて何かを話していた。その途中で友人が私に話しかけてきた。私はそれを嗜め、「先生が喋ってるから静かに」と返した。その瞬間、体育教師の怒号が飛んだ。

「三木! 〇〇! 私語をするな!」

自分は友人に注意していただけだと、私は何度も説明した。しかし「嘘をつくな」と言われるばかりだった。やがて体育教師は「これ以上嘘をつくなら覚悟しろ」と体罰をほのめかし始め、けっきょく私は私語をしたと「認めて」謝罪するしかなくなった。私にはそのとき、自分が私語をしていないと主張する力が認められていなかった