釜石で緊急事態宣言後初のラグビー試合に臨んだヤマハ15の熱き想い

東日本大震災から9年続く交流の絆
大友 信彦 プロフィール

震災3ヵ月後に目の当たりにした被災地の現実

2011年6月5日、東日本大震災の発災からまだ3ヵ月たっていないときだった。ヤマハ発動機ジュビロは、まだ震災の傷跡が生々しい釜石を訪れ、松倉グラウンドで釜石シーウェイブスと試合を行った。

2011年6月、ヤマハは震災3カ月後の釜石を訪れて試合をした。左端がゲーム主将の五郎丸

まだ仮設住宅も建たず、たくさんの人が、避難所となった体育館で、仕切りもない中、段ボールを敷いた上で寝起きしていた頃だった。

 

「鮮明に覚えています。忘れられない経験でした。ここでラグビーをしていいのかという葛藤がありました」

当時、堀川はヘッドコーチとして、清宮克幸新監督とともにチームを率いていた。沿岸地区の宿泊施設はどこも回復していなかった。内陸の遠野に泊まったヤマハの選手たちは、朝早くからバスで釜石に入り、津波被害の跡を視察した。

鵜住居から大槌にかけて広がる平地は見渡す限り町が消えていた。残っている建てものの、見上げるような高さにクルマが刺さっていた。津波の力と火災の熱でひしゃげ、溶けたままの横断歩道橋。バスの窓を閉めていても入り込んでくる異臭。それはテレビでどんなに繰り返し映像を見ても感じ得ない被災地の現実だった。

震災1ヵ月後の釜石市内(2011年4月5日)
2011年6月5日、ヤマハ戦の会場に出店した炊き出しに並ぶ人たち。まだ多くの市民が避難所に暮らしていた

ヤマハの選手・スタッフの誰もが、これからここでラグビーをする意味を考えた。だらしない試合はできない。強い気持ちで試合をしなければ。

その決意は試合を一方的な展開にした。ヤマハは下部リーグのシーウェイブスを相手にも、ゲームキャプテンを務めた五郎丸歩や元オールブラックスのモセ・トゥイアリイらベストメンバーで臨み、激しく正確なプレーを反復し、次々とトライをあげた。

徐吉嶺の突破を五郎丸がサポート。右端はシーウェイブス前主将のアラティニ

ヤマハがトライをあげるたびに、堀川の脳裏を「これでいいのだろうか…」という思いがよぎった。震災で傷ついた地元の人たちの希望を背負っているシーウェイブスを、こんなにコテンパンにしてしまっていいのだろうか。

だが、釜石の人たちは、堀川のそんな葛藤を打ち消すような反応を返してくれた。76-5という一方的なスコアでヤマハが勝利したあと、地元のファンがかけてくれた言葉に、堀川は胸を打たれた。

「来てくれてありがとう」
「良い試合をしてくれてありがとう」

76-5とシーウェイブスを圧倒したヤマハに釜石のファンは温かい拍手を贈った

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