「赤城」「加賀」「蒼龍」、3隻の空母が紅蓮の炎と黒煙を噴きながら、それでも全力で航走を続けている。
「戦況は見ての通りだ。この敗勢を挽回するため、諸君の一層の奮励努力を期待する。とにかく仇(かたき)をとってくれ」
いまや、この作戦に参加した日本海軍機動部隊で唯一の空母となった「飛龍」の飛行甲板上で、第二航空戦隊司令官・山口多聞(たもん)少将は、訓示を終えると、整列した36名の出撃搭乗員一人一人の手をしっかりと握った。
続いて、攻撃隊指揮官・友永丈市大尉が、搭乗員の前に立つ。
「百年兵を養うは、ただ一日これを用いんがためである。七分三分の兼ね合いだ。こちらが苦しいときは敵もまた苦しい。やられたらやり返せ。かかれ!」
搭乗員たちは、まなじりを決して各自の乗機に乗り込むと、敵機動部隊をめざして次々と発艦していった。
昭和17(1942)年6月5日(日本時間)、ミッドウェー海戦。丸山泰輔は、「飛龍」艦攻隊の一員として、九七式艦上攻撃機に搭乗、まさに歴史の転換点となったこの戦いに参加していた。当時、19歳の一等飛行兵曹(一飛曹)だった。
丸山は大正11(1922)年11月、和歌山県に生まれた。三重県の中学に進み、4年のとき、「海軍甲種飛行予科練習生(甲飛)」募集のポスターを見て、飛行機乗りになろうと思い立つ。
難関を突破して昭和13(1938)年10月、甲飛三期生として横須賀海軍航空隊に入隊、予科練での基礎教育を卒業すると鈴鹿海軍航空隊、大村海軍航空隊の飛行練習生課程で、偵察員としての訓練を積んだ。偵察員とは、複座(2人乗り)以上の攻撃機や爆撃機、偵察機などで、偵察、航法、電信などを担当する、緻密さと計算能力を要求される役目である。
昭和16(1941)年4月、空母「飛龍」乗組。実戦に即した猛訓練を経て、ほどなく太平洋戦争が始まった。丸山は、「飛龍」雷撃(魚雷攻撃)隊、九七式艦上攻撃機の偵察員(3人乗りの真ん中の席)として、12月8日の真珠湾攻撃に参加した。
「真珠湾の敵戦艦群が見えたときは、『よしやるぞ!』と、思わず武者震いしました。すでに『赤城』『加賀』の雷撃隊が攻撃に入っていて、魚雷が命中した水柱が何本も上がるのが見えた。『飛龍』雷撃隊は8機。4機ずつ目標が分かれていたと記憶しています。真珠湾に係留されている戦艦は動かないですから、魚雷が走りさえすれば必ず命中する。水深の浅い真珠湾で、いかに魚雷を走らせるか、それだけに集中していました」
と、丸山は回想する。アメリカ側の記録によると、丸山の飛行機は戦艦「オクラホマ」に魚雷を命中させた、とある。
「先に攻撃に入った『加賀』雷撃隊は、対空砲火でずいぶんやられましたが(12機中5機が未帰還)、われわれのときは散発的にしか撃ってきませんでした。私の機は雷撃後、左旋回で避退したんですが、右の方に優秀な射手がおったのかもしれません。とにかく、帰艦したら、艦を挙げてのバンザイ、バンザイで迎えられましたよ」
丸山は、真珠湾攻撃の帰り、12月22、23日に行われたウェーク島攻撃に参加。いったん内地に還って再出撃後は、翌昭和17(1942)年2月19日のオーストラリア・ダーウィン、4月5日のセイロン島コロンボ、4月9日には同・トリンコマリ空襲など、機動部隊の主要作戦のほとんどに参加している。