二度にわたる「大腿骨骨折」

日々の忙しさにかまけて、2~3ヵ月訪問できないときがあった。気にかかってはいるが、片道2時間から2時間半ほどかかる…つまり往復するだけで日が暮れてしまうので、訪問するとなると時間調整にひと苦労するのである。運転免許は持っていないから、車でぴゅーっと飛ばして行くことができない。

気ばかり焦っていたある日、園から突然電話がかかってきた。
「実は登志子さんが尻もちをついてしまいました。病院でレントゲンを撮ったのですが、大腿骨を骨折されています」

ああ、恐れていた大腿骨骨折をとうとうやってしまった。母は骨がもろいので、いつか骨折するかもしれないとひやひやしていたのだ。
状況を聞くと、尻もちというより、手すりにつかまりながら歩いているときに手が滑って崩れ落ちたような転び方だったらしい。骨折しているようには見えなかったが、大事をとって受診したら左の大腿骨が折れていたのだった。骨を固定する手術をしなくてはいけない。あっという間に手術の日取りが決まった。人工骨頭にならずに済んだのが不幸中の幸いだった。術後2週間ほど入院し、園に戻ってリハビリをすることになった。

問題は費用だったが、4~5万円程度だったように記憶している。後期高齢者であり、高額療養費制度が適用されたからだと思う。

その後、母はますますベッドで過ごす時間が増えた。まったく動かないわけではない。リハビリもあるし、トイレには自分で行っていたし、気分転換で職員に付き添われて部屋から出ることもあった。問題は、誰も見ていないときにベッドから降りる瞬間だった。ベッドに柵はつけてもらったが、うっかり変な降り方をして、落ちそうになっていたのを発見されたりしている。そこで、ベッドの下に衝撃吸収マットが敷かれた。母はこのマットにずいぶん助けられたはずだ。

高齢者の大腿骨折は、それからずっと寝たきりになるきっかけにもなりうる Photo by iStock

さて、例の骨折からほぼ1年後のことである。
申し訳ありません。お母さまがまた大腿骨骨折されました

衝撃吸収マットの外側で転倒しているのが見つかったのだった。今度は右だった。1年の間に、両足の大腿骨を骨折するなんて……。軽傷であることを祈っていたが、検査の結果、大腿骨の頭のほうが大きく損傷しており、人工骨頭が必要なレベルであることがわかった。骨盤の高齢者にはよくあるケガとはいえ、人工関節になるというのは生易しいことではない。回復には時間がかかるだろうし、リハビリもつらいものになるだろう。そしてどんなにリハビリをしても、歩行が100%元通りになるとはいえない。母はきっとがまんするだろうが、年を取ってまで辛いリハビリをさせるのは可哀そうだった。

整形外科の病棟には、晴子叔母やいとこのユカも見舞いに来てくれた。母は誰が来ても愚痴ひとつ言わず横になっていた。目を開けてじっと寝ている母を見ていて、彼女の感情はどこにいってしまったのだろうと思った。喜びとか悲しみとか腹立ちが、ほとんど見えない表情の奥で、本当は何を感じているのだろう。

今言っておかなければ、と感じて「お母さん、ごめんね」と言った。

するとそれまでの無表情が消え、母は心底驚いたように目を見開いた。「今さら何を言ってるのかしら」とでも言いたげな顔だった。しかし、彼女はひと言も返してくれなかった。認知症であっても、私に対して言いたいことは渦巻いていただろうに。