父の急逝後に突然認知症を発症した母の登志子、そしてしっかり者と思っていたのに、実は認知症になりつつあり、母の実家をゴミ屋敷にしていた伯母の恵子。伯母は独身で、編集者の上松容子さんは従妹と協力して2人のケアをすることになった。

当初同居を反対していた義母も最後は折れて母とも同居になり、上松さん、義母と母、そして夫と娘との生活が始まる。転んだ後に入院していた伯母の退院後の居場所も探しながら、仕事と育児に加え、自宅での母の「見守り的介護」が続いた。使用済みトイレットペーパーを流さずにトイレの床に積み上げてしまったり、他人の歯ブラシを使ってしまったり、同居して見守る介護の大変さを思い知ることとなった。そうやって頑張っている中、母が娘である自分を忘れてしまったことを知って衝撃を受ける。

それでも自宅介護を続けてきたが、もはや限界に近づいており、施設にお願いする決意をした。しかし公的機関であるの特別養護老人ホームはキャンセル待ちの列ですぐには入れない。有料老人ホームも様々な場所があり、自宅介護のできない自分を責めるのだった。

今回は、一度は有料老人ホームに決まったあとに特養に空きができ、母と伯母ふたりとも同じ特養に入所してからのことをお伝えしていく。名前だけ変えたドキュメント連載。

上松容子さん「介護とゴミ屋敷」今までの連載はこちら

施設で生き生き若返った伯母 

母・登志子と伯母の恵子は郊外の特別養護老人ホーム(特養)に入居した。私も晴子叔母もいとこたちも、これまでの緊張感から解放されてひと息つくことができた。
23区内から電車で行くのは骨が折れたが、私たちはできるだけふたりの顔を見に行こうと決めていた。ただし、各家庭日にちをずらして。おおぜいで訪れればそのときは賑やかで楽しいかもしれないが、私たちが去ったあとはぐっと寂しくなるだろう。身内がそれぞれバラけて行けば、訪問の数が増える。そのほうが彼女たちの気持ちも和むだろうと考えたのだ。

入居して3ヵ月ほど経ったころだろうか。私が家族と一緒に訪ねて行ったときのことだ。玄関ロビーに入り、訪問者と入居者の名前、訪問時間を書類に書き込んで、まず伯母の部屋に向かおうとした。廊下を歩いていると、背後から伯母の声がした。振り向くと、伯母が職員用エレベーターの近くで大きく手を振っている。部屋から離れて何をしているのかと思ったら、なんと配膳担当の職員を手伝ってワゴンを押していたのだ。
「おばちゃん! どうしたの?」

すると、いっしょにワゴンを押していた、肝っ玉母さんのような風貌の職員がケラケラ笑って言った。
「恵子さん、いつも手伝ってくれるんですよ。大助かり!」
「そうなの、私働いてるの」

それが気まぐれではなく、毎日毎回だというから驚きである。通りかかる職員に「元気?」と声をかけて世間話をする様子は、まるで古参の職員ではないか。
廊下の壁にはさまざまな掲示物が貼られていたが、俳句や書道の作品に、恵子の名前がいくつもある。

「恵子さんは、園内の催しにはほとんど参加しているんですよ」
「だって、やらなきゃもったいないじゃない?」

これが母から年金を巻き上げ、弁当とビールで荒れた暮らしをしていた認知症老人なのか。頭が元気だったころの伯母に戻ったみたいに生き生きとしている。
「登志子のところにも行くの? 私も行くわー」

ゴミ屋敷でネズミと暮らし、片づけを一切せず、お風呂にも入らない生活をしていた伯母が、人の仕事を手伝い、書道も楽しんでいる。嬉しい驚きだった Photo by iStock