不倫への嫌悪感とトルストイの関係

さて、公平を期すために不倫断罪派の「教養」も紹介しよう。トルストイの『クロイツェル・ソナタ』(初版:1889年)ではキリスト教的禁欲が描かれ、不倫どころか「性交渉がなければ子どもが産まれず、結果、人類が滅びてもそれでいい」という極論さえ登場する(ちなみに、現代社会では人工授精によりその「極論」は回避できるわけだが)。

「(パートナー以外に)情欲を抱いた者は心の中で姦淫したということだ」というくだりは、現在の不倫バッシングに潜む「性欲に負け、理想の結婚を実行できない人間性」そのものの嫌悪と同根であり、そもそも、「尊敬すべき女性を性的対象と見てしまうことが嘆かわしい」という理想論に至っては、渡部不倫問題の時、「女性を(性欲処理の)モノとして扱っていて、けしからん」という多くの女性コメンテーターの憤りと直結していく。

不倫嫌悪の裏にある羨望

不倫には、その当事者だけが得られるだろう特権的な快楽が存在し、それを嫉む心理もまたバッシングの背景にある。江戸時代の不倫は犯罪だった。当時の六法全書である「御定書百箇条」によれば、「密通(結婚していない相手との性的関係全て)罪は、男は引き回しの上、獄門、女は死罪」とあり、歌舞伎や人形浄瑠璃には『心中天網島』『曾根崎心中』など、道ならぬ男女関係の心中演目が充実。

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男女ともに、世間の常識を破った果ての死は、悲劇と言うよりも、タブーによってさらに燃えさかる恋愛と性愛のカタルシスの方が強調され、「悲劇どころか、そんなふたりがいっそ羨ましい」という感覚にも陥る。そこには、現在における不倫バッシングの本音のようなものが横たわっているのだ。