近い将来必ずやってくる、人間の自由よりも安心安全を優先させた、AIフル活用の管理社会では、逆に「反教養の思考停止で権力に身を任せた方が身のため」という事態に陥るかもしれない。そうだとしても、その抑圧的な社会を自覚し、新約聖書に記された「人はパンのみにて生くるものに非ず」というキリストの言葉が象徴する、人間ならではの葛藤をどうしていくか、という回答もまた教養の中にあるのだ。

教養を生かす、とは何か。それは「一年間で映画100本観ました」というような数を見せびらかして、自分にハクをつけるものではない。自分の生活圏から伝統的かつ自動的にもたらされる「常識的とされている見解、モラル、思考」を、外部からの情報によって「疑ってかかれ!」という態度で頭を働かせることである。

「不倫はダメ絶対!」を疑ってみる

例えば、不倫問題。ベッキー事件を発端に芸能人の不倫がメディアに暴かれ、人気稼業である彼らが社会的制裁を受ける、という顛末が固定化した今、「不倫はダメ絶対!」という常識がかつてとは比べものにならないほど強力に立ち上がってしまった。不倫は刑法等に規定のない行為なので、犯罪には該当しない。しかし、日本のメディア報道による断罪と世間の空気を鵜呑みにすれば、不倫はもはや犯罪同様の扱いだ。

この不倫に教養の光を当てると、そういったテレビ的善悪説とは別の多様な側面が見えてくる。世界史をたぐってみれば、フランスの王侯貴族の間では、性愛も含む恋愛は、結婚で身を固めてからの日常的行為だった。何度も映画化されているラクロ原作の『危険な関係』に描かれる通りの、優雅で知的なゲームとしての恋愛は肯定されており、ひとつの文化ですらあった(「不倫は文化」発言でバッシングされた石田純一の文脈はこのあたりだろう)。

しかも、そういった過去を持つフランスでは、最高裁にあたる破毀院がとある政治権力に関わる不倫事件に際して「不倫はもはや反道徳的とはいえない」という判決文を出し(※1)、ある調査では、53%のフランス人が不倫は道徳的に許される行為だと答えている(※2)。不倫に限らず、日本人の常識の全てが世界で通用するグローバルなもの、という考えは、教養を少し囓っただけですぐにナンセンスになる。

※1 フランスの週刊誌『ポワン・ド・ヴュ』が、オランド元大統領のファーストレディだったヴァレリー・トリールヴァイレール氏と保守系議員が愛人関係にあると報道。事実ではないとして、その議員が同誌を訴えたところ、2015年12月、フランスの破毀院で「不倫は40年前から刑法上の罪ではなくなっており、現代の風紀においてはモラルに反するとは言えない。だから名誉毀損に当たらない」という旨の判決が下った。
※2 アメリカのシンクタンク「ピュー研究所」の2014年の統計より。