生け捕りの末、拷問されて処刑…戦国時代の忍者の悲しすぎる最期

「人買い商人」に売却されることも…
平山 優 プロフィール

敵方の忍びだとバレたら、処刑…

同様の事例を紹介しよう。佐竹氏の記録『佐竹家旧記』二のなかに『古先御戦聞書』という記録がある(東京大学史料編纂所謄写本)。そこには、佐竹氏の合戦などに関する聞き書きが収められている。

この一部に、天正12年(1584)5月から8月にかけて、佐竹義重・宇都宮国綱・結城晴朝ら北関東の領主連合軍(「東方之衆」)と、北条氏直軍が、下野国沼尻を舞台に対決した、沼尻合戦の記録がある。合戦の詳細は、齋藤慎一氏の労作に譲るが(齋藤慎一・2005年)、その一節に、北条方の忍びが捕縛された事情が記録されている(『藤岡市史』資料編古代・中世三一号、齋藤慎一氏のご教示による)。

それによると、両軍は、沼尻の地形や双方の堅陣に阻まれ、なかなか相手に決定的な打撃を与えられないまま、7月13日を迎えた。すると、北条氏直から、佐竹方に使者が来て、今日より16日までは、年に一度の玉祭(魂祭、盂蘭盆)だから休戦し、17日からまた戦いを再開しようではないか、との申し入れがあったという。

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そこで、佐竹義宣は、家老らを集めて評定を開いたところ、盂蘭盆を利用して、佐竹氏らの油断を誘う、北条の策略ではないかとの声が出た。義宣は、この意見を重く見て、全軍に警戒を厳重にするよう指示した。そして、次のような事件が起こったのである。

同日義宣公、目付之者共ニ被仰渡ケルハ、暮以後陣屋ノ前ヲ通ル者、譬樵夫、草刈タリ共、搦捕テ披露可仕由被仰渡、然ル所ニ暮方ニ御陣屋ノ前ヲ草ヲ荷イテ両人通ル、御目付、是ヲ咎ル処ニ、御方ノ者成由ヲ申ス、主人之名ヲ尋ケルニ答ナシ、則搦捕テ披露ス、義宣公ニ令問給フ所ニ、北条方之忍ノ者ニハ無之ト賃持申ス、義宣公仰ニ曰ク、荷タル草ノ内ヲ見セ給ヘハ、二尺二三寸之刀ト火打道具アリ、依之有ノ儘ニ北条方ノ忍ノ者也ト白状申ス、即佐竹中務へ被預、十七日朝、氏政ノ陣所近ニテ首ヲ刎獄門ニ掛ラルヽ

佐竹義宣は、目付の人々を召し出し、今日の暮以後、味方の陣屋の前を通過する者は、たとえ樵夫や草刈りであろうと、ただちに捕縛し報告せよ、と命令した。このことから、境目の村町の住人ならば、合戦場でも通行は認められていたことになる(恐らく半手の村と双方から認定されていたのだろう)。