生け捕りの末、拷問されて処刑…戦国時代の忍者の悲しすぎる最期

「人買い商人」に売却されることも…
平山 優 プロフィール

この大風雨とは、この直前の8月10日、東海地方を襲い、駿河湾沿岸に甚大な被害を出した台風のことを指すと推定される(藤木久志編・2007年)。

この他に、天正10年8月12日、天正壬午の乱の真っ只中にいた徳川家康は、信濃飯田城に、徳川方の奥平信昌、鈴木喜八郎らとともに籠城していた、信濃国衆下条兵庫助頼安に書状を送っている。

この時、家康は、甲斐新府城を本陣とし、若神子城を本陣とする北条氏直の大軍と対峙していた。徳川方は、この最前線において、北条方の兵士を捕虜にし、北条軍の内情を聞き出していたらしい。その結果「自氏直陣生捕仕候申分者、当表出張事聊爾千万故、只今可令退散行之談合迄之由、何も同前申候」との情報を掴んだようだ。

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つまり、北条氏直の陣所から来た者たちを生け捕り、彼らから聞き出したところでは、北条軍が甲斐に進撃したのは、うかつ過ぎた作戦であるので、もはや撤退すべきであるとの話し合いが行われているとのことで、これは複数の者が異口同音に証言している、ということであったらしい。

このように、戦国大名は、敵方から放たれる忍びの摘発に血道をあげており、それは各地の在城衆などが城周辺の警戒を実施する際の重要な任務であった。敵地と通じる街道筋などでも、点検が行われていたことであろう。

また、敵と対峙する最前線でも、敵の忍びを殺害するだけでなく、敵の情報を探るために生け捕りにすることも重視されていた。先に掲げた、徳川方が、北条方の者を生け捕りにして、そこから氏直や家臣らの談合の内容を聞き出したのは、その好例といえる。