戦国大名は、敵地から放たれる忍びの潜入を阻止すべく、その摘発に全力を挙げていた。また、城周辺などに出没する敵の忍びの捕縛にも全力を挙げていた。
永禄7年4月9日、上野国赤坂城(群馬県高崎市)に在城していた武田重臣金丸忠経、上野国衆和田業繁は、同城在番衆の飯島小次郎という人物が、城下の烏川付近で、様子を窺っている不審な人物を発見し、これを捕縛したと、甲府の武田重臣原昌胤に報じた。どうやら敵らしい人物と思われ、去る3月20日に捕縛されたという。
金丸・和田は、捕えた敵方と思しき人物を、ただちに甲府に護送する手配をし、詳細な尋問を武田氏に委ねている。
捕虜となった敵方の人物は、厳しい尋問を受け、逆に敵方の情報を自白するよう強要された。恐らく、拷問なども日常的に行われたであろう。
天正9年8月20日、武田勝頼は、駿河国江尻城(静岡県静岡市清水区)代穴山梅雪に書状を送った。この中で勝頼は、駿河国興国寺城(沼津市)の在番衆が捕縛した捕虜(「生捕」)が甲府に護送され、その人物を尋問したところ、「先の大風雨で、北条方の海賊衆は安宅船を始めとして、多数が破損した」との情報を掴んだと報じ、「北条方の海賊衆は、まともな作戦が遂行できないだろう」との見通しを示している。