政治はなぜ「怒りと敵意」で動くようになったのか?

リベラル・デモクラシーの後にくるもの
吉田 徹 プロフィール

歴史認識問題とテロ

テロと縁遠いかにみえる、日本をみてみよう。2015年11月、東京の靖国神社の敷地内にある公衆トイレで爆発音が鳴り、簡易式の発火装置が発見された。

仕掛けたのは、直後に帰国した韓国籍の20代後半の男だった。12月になって彼はふたたび日本に入国を試み、建造物侵入の疑いで逮捕された。

もっとも、発火装置を仕掛けたこの人物は、決して「反日思想」に染まっていたわけではなく、本国で反日的行動が英雄視されることを知って注目を浴びるためにそうした行動に及んだと証言した。

 

こうした子どもじみてみえる犯罪行為は、集団的なものともなる。

トランプ大統領が「双方に責任がある」と言って批判された2017年のシャーロッツビル事件は、当地にある南北戦争時代の南軍リー将軍の銅像撤去に反対する白人至上主義者や右翼団体と、反差別団体が衝突して起きた。

シャーロッツビル事件(photo by gettyimages)

数百人が対峙したこの騒動では、白人至上主義を奉じる21歳の青年が抗議者の列に車で突っ込み、20人の死傷者を出した。アメリカ司法省はこれをホームグロウン(自国生成)・テロとして認定している。

このような歴史認識問題をきっかけとした衝突や摩擦は当たり前のものとなってしまった。

アイデンティティの空白

日本でも、在日韓国・朝鮮人や外国人に向けられるヘイト・スピーチ、再燃する歴史
認識問題は、いずれも三位一体の瓦解と関連している。

隣国との関係悪化が日本社会の在り方(そして韓国や中国の社会の在り方)に大きく影響しているのは確かだ。

ただ、「戦後」が長く続き、国家の戦争責任という争点が歴史認識の問題へと軸足を移し、国と国の対立が世論と世論の対立となり、互いに憎しみと偏見をぶつけあっているのは、日本以外の多くの国でもみられる光景だ。

事例を長々と紹介したのは、これらはいずれも、共同体(国民、家族)の液状化、権力行使(政党政治、宗教)の様式が変わっていること、そして争点(移民、歴史認識問題)の比重の変化の交差点にある出来事だからだ。

哲学者アリストテレスは「自然は空白を嫌う」と書いた。

戦後政治の背骨を形成していた同質的な社会、階級と再分配、労働組合や教会からなっていたコンテンツが崩壊する一方、生まれる空白を埋めているのは、ねじれた個人のアイデンティティであったり、それによる赤裸々な暴力行使、新たな共同体への希求や熱狂であったりする。

人間は「曲げられた木片」

まとめれば、今の政治や社会を駆動させているのは、もはや「右翼vs.左翼」「保守vs.左派」といった、19世紀からの工業社会を牽引してきた古臭いイデオロギーや世界観の対立ではない。

政治社会の対立軸はすでに細分化し、階級や階層は「クラスタ」と化し、そこに属する個人の嗜好や属性に応じて、それぞれが反発したり、くっついたりしながら、場と文脈に応じて共同体・権力・争点の特性を変化させていく。

その担い手に唯一共通しているものがあるとすれば、それは「互いに違う」という差異でしかない。

「人間という曲げられた木片からは何ひとつまっすぐなものは生まれない」

自由を何よりも愛した政治哲学者アイザイア・バーリンは、この詩人コリングウッドの言葉を好んで口にしたという。

その言葉を冠したエセー「曲げられた小枝」は、古代ギリシャのプラトンからフランス革命の啓蒙思想家、さらにマルクス= レーニン主義に至るまで、合理主義者、自由主義者、社会主義者を問わず、人間の「搾取に対する社会的抵抗」が無視されてきたと説く。

彼は科学主義や合理主義、専門主義は人間の原初的な感情を無視して、人びとが本来的に持っている「承認への欲求」を無視するゆえにいつも反撃にあうのだ、と警告した。

人間は本来的にまっすぐなものではない。状況と文脈や環境の変化に応じて、右に曲がったり、左に曲がったり、あるいはねじれたりするものなのだ。

そうなのだとしたら、まずは木片が曲がっていることを非難したり、恐れたりするのではなく、なぜ曲がったのかの観察から始めなければならない。