ネオリベラリズムはなぜブルシット・ジョブを生み出してしまうのか

効率化は必ず非効率に帰結する
酒井 隆史 プロフィール

国家と市場、戦争と貨幣の“腐れ縁”

近年のネオリベラリズムの研究は、このようなネオリベラリズムの政治的性格、ファシズムとすら親和性をもつ権威主義的性格に焦点を合わせてきた。グレーバーのブルシット・ジョブや官僚制にかんする議論は、そうした研究と、少し異質なところから交錯するものである。

ただし、ネオリベラリズムをめぐる人文社会科学的研究がおおよそ近代のみを対象としているのに対し、人類学者であるグレーバーの議論は、近代をはるかに超えて、人類史にまで視野が拡張している(ただし、実は、ネオリベラリズム研究のもっともすすんでいる分野のひとつが人類学でもあることは注記しておこう)。

ネオリベラリズムにかぎらず、リベラリズム全般が共有する傾向のある発想に、国家と市場とは根本的には相いれないというものがある。つまり、市場は自由であり国家はそれを制約するものである、市場の自由の拡大は国家による支配の縮小であるといった発想である。

この発想は、近代になって生まれてきたものであるが、歴史的にはなんの根拠もない。もともと、(商業的)市場——モノやサービスの交換のみを目的とする場としての市場を「非人格的市場」という——は国家にべったりはりついていた。

 

市場の中核を構成しているのは、「交換」である。そしてこの交換には、貨幣が必須である。ここでいっているのは、漫画やアニメなどで「原始人」の使っていた巨大な石とか棒ではなく、わたしたちになじみぶかい、銀や銅などの金属に偉人の顔などと価値表示の刻印された「鋳造貨幣」のことである。この「鋳造貨幣」なしに、市場は存在しない。

ではこの鋳造貨幣はどうして生まれてきたのだろう? 常識の教えるところでは、それまで物々交換をしていた未開の人々が、そこから生まれるさまざまな不便を克服して発明したものが貨幣である。標準的な経済学も、このストーリーを採用してきた。

ところが、歴史学や人類学の知見によれば、それはちがう。もともと鋳造貨幣は、戦争において国家が、兵士に物資を支給する手っ取り早い方法として分配したところからはじまった。

より具体的にいうと、紀元前6世紀あたりの地中海世界である。この時代のこの地域は、まさにアテナイやスパルタなどの都市国家を中心として政治や文化の開花をみていたわけだが、よく知られるように、それと同時に、戦争と奴隷制にいろどられてもいた。それは、このような「鋳造貨幣」の発明と無縁ではない。

戦場にある兵士に、いちいち物資を供給しようとしたら、その手配だけでも大変なことになることは想像できるだろう。それで国家は兵士に貨幣を与え、その交換可能性(つまり「西郷札」みたいにゴミにならない可能性)をみずから保証することで、物資の支給を「民間」世界にゆだねたのである。その副次的作用によって市場が生まれた。

そもそも、戦闘状態にある兵士ほど、当地の民衆にとって信用のおけないものはない。というのも、かれらはたいてい、地域の人々にとってはえたいの知れぬ人間であり二度と帰ってくるかもわからない人間である。とうていツケなどきかせられるわけがない。

ところが、鋳造貨幣は、支払いさえあればそれでそれ以上の人間関係上の信用はなにもいらない。相手がだれであろうが商品の出所がなんであろうが、必要なものを買って支払って、それで関係もおしまいである。戦場向きなのである(「恋してみたとて、一夜の火花」である……)。

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