ネオリベラリズムはなぜブルシット・ジョブを生み出してしまうのか

効率化は必ず非効率に帰結する
酒井 隆史 プロフィール

数量化しえないものを数量化しようとする資本主義の欲望

このようなことは大学でだけ起きているわけではない。グレーバーがこの事例をあてたわけは、「実質のある仕事(リアル・ワーク)のブルシット化の大部分、そしてブルシット部門がより大きく膨張している理由の大部分は、数量化しえないものを数量化しようとする欲望の直接的な帰結」であることをわかりやすく示そうとしてのことである。

つまり、効率化を旗印にし、ムダの削減を呼号するような市場原理による改革がすすめばすすむほど、逆に、官僚制的手続きはややこしくなり、規則はやたらと増殖し、ムダな役職も増えていくことの背景には、このように、数量化しえないものを数量化しようとする「市場原理」の拡大があるということになる。

ネオリベラリズムのなにが19世紀の古典的リベラリズムや20世紀型ケインズ主義的リベラリズムとちがうかというと、まずひとつは、このような市場原理をこれまで「経済」とみなされていた領域を超えて、ほぼすべての人間生活の領域にまで拡張しようとするところだ。

そのさいの武器は、人間を企業形式と捉えながら競争構造を導入するというやり方である。つまり、ネオリベラリズムの世界観においては、原則的に、労働者も消費者も、あるいは資本家も存在しない。そこにあるのは、さまざまなレベルでの企業体としての個人である。

わたしたちは労働者ではなく、一個の企業体であり、日頃から自己投資をおこない、教育資産を高め、契約によって業務をこなし、契約が終われば業務も終わる、もちろん、失敗があればそれは企業体の責任――自己責任――である。

「数量化しえないものを数量化しようとする欲望」は、もともと資本主義に内在するのだが、ネオリベラリズムはその欲望を全面的に解放するものなのである。

 

それはしかし、ナチュラルなプロセスとはほど遠い。というのも、人間生活の領域は、数量化しえない――市場原理になじまない――膨大な蓄積に根ざしているからである。たとえば、「福祉」と要約されるようなケアの領域、愛情の領域、友情や連帯感の領域、地域性の領域などなどである。

したがって、その領域――これを経済人類学にならって「社会」の領域とひとまずしよう――にまで市場原理が拡張しようとするとき、かならず抵抗や摩擦が起きる。

たとえば、労働運動や住民運動は、たいていの場合、市場原理の拡大に対する「社会」による典型的な反発である。

あるいは最近、渋谷の宮下公園のジェントリフィケーションが話題になったが、市場原理で運営されてはならないがゆえに「公園」であった「公園」は、そこに市場原理が導入されるとき、そこに寝泊まりする野宿者の排除や、さまざまなそれ以外の利用に対する規制をともない、反発を呼び起こす(興味ぶかいのは、こういう摩擦が起きてはじめて、だれもおもいもよらない使用法の数々の存在が浮上してきて、その場がもちえていた多様性が可視化することである)。

この力学は、資本主義社会を通して貫徹してきたのだが、ネオリベラリズムは、市場原理の社会全域への拡大によって、この力学そのものを抹消しようとするところに特徴がある。

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