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ネオリベラリズムはなぜブルシット・ジョブを生み出してしまうのか

効率化は必ず非効率に帰結する
効率化をうたうネオリベラリズムが、非効率で不合理なブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)の増産に帰結してしまうのはなぜか? 社会思想史家にしてデヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ』の訳者でもある酒井隆史氏による、「日常的ネオリベラリズム」批判序説。

「効率化」が効率的だなんて実感はどこにあるだろう?

いつごろからか、なにごとにも「効率化」「合理化」「スリム化」などなど、一連の似たようなワードが呼号されるようになった。「規制緩和」、無駄の削減、合理化の導入、競争環境の導入によるスリム化、IT化による簡素化などなど、こういったお題目によって、わたしたちの生活はさまざまに変えられてきた。

ところが、みなさん、それによって日常生活がより解放的で自由になったという実感がどれほどあるだろうか? この問いは前回のウェブ記事(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74475)でも発したものであるが、もう一度、問いたい。

小泉改革のあたりからだろうか、公務員がムダの元凶、不効率の砦として、攻撃の槍玉にあげられるようになった。マスコミをあげての総攻撃の結果、郵政を筆頭に、それまで公的領域にあったものが続々と「民営化」されていった(民営化はprivatizationの訳語であり、本来、私有化とか私営化といった含意をもつはずだが、日本語の語感はそれがあたかも「民衆」を主体とするものであるかのようなニュアンスをかもしだしてしまい、この訳語自体が、ネオリベラリズムのイデオロギー効果を増幅させてしまうことに注意してほしい)。

この流れはすでに明確な実践というかたちでは1980年代の中曽根改革からはじまっているのだが、小泉改革のあたりから、その流れは加速し、さまざまな公共機関にいわゆる「市場原理」が導入されるようになった。

それとともに、先ほどあげたような語彙――効率化、スリム化、「自己責任」、「選択と集中」などなど――が、わたしたちの日常生活にも浸透するようになってきた。

 

日常に浸透するネオリベラリズム由来の価値観

現在普及している意味でのこうした語彙はすべて「ネオリベラリズム(新自由主義)」という理念体系に由来するものであるが、要するに、このネオリベラリズムという古くて(起源は第一次大戦ごろにさかのぼる)あたらしい(支配的政策として普及するのは1970年代以降である)思想とそれに由来するさまざまな価値観がわたしたちの日常をも支配するようになったのである。

おおよそ、日常に浸透したネオリベリズム(これを「日常的ネオリベラリズム」という)の教えるところは、こうである。

「民営化」すれば無駄もなくなり生産性もあがり、人々も働く意欲をもつなど、いいことづくめである。なぜかというと、「民間企業」は市場原理にのっとって動いているわけで、効率性を至上価値とする市場原理にムダはありえない。したがって、すべてを「民間企業」のように運営すればまちがいないのだ、と。