〔PHOTO〕iStock

19人殺害の相模原事件が「死刑判決」だけで終わってはいけない理由

相模原障害者殺傷事件が僕たちに突きつけたもの【第12回】
映画監督・作家の森達也氏が3月19日、死刑判決直後の植松聖と面会した。2016年、入所中の知的障害者19人が殺害されたあの事件の深層とは何か?

前回はこちら:「植松聖は何者か、相模原事件とは何だったのか」精神科医はこう分析する 

社会に漂っていたものとは何か

植松の死刑確定後に刊行された「パンドラの箱は閉じられたのか」に寄稿した松本は、以下のように事件を総括している。

 もしも私の空想に多少とも当たっている部分があったならば、やはりこの事件、「死刑判決」だけで終わってはならないと思うのだ。というのも、彼の信念の大半は、彼の内部から自発的に出てきた言葉ではなく、あらかじめ社会に漂っていたものを拾い集めて作られたものだからだ。(『パンドラの箱は閉じられたのか』175ページ)

「こう書いた後に松本さんは、『だからこそ我々はあの事件を自分の問題として考え続けなければいけない』と宣言します」

はい、と小声で言いながら松本はうなずく。この男はこの後に議論をどこへ持ってゆきたいのだろう、というような表情だ。

「基本的には僕も同じ思いです。でも社会に漂っていたものとは何か。真っ先に思いつくのは障害者差別、そして最近では在特会が体現する在日外国人への差別、あるいはヘイトクライム、女性蔑視やドメスティックバイオレンス、こうした要素は確かに社会に満ち溢れている。でも同時に、これはきわめて直感的なのだけど、植松の犯罪はこうした差別意識やヘイトに根差しているとは思えないのです」

 

ああそういうことかというようにうなずいてから、「僕も違うと思います」と松本は言った。「強い憎しみを持って彼らを排除しようとしたというよりも、彼は彼なりの合理性を持って、あるいは社会的効率性を考えて……」

「社会や世界、多くの人々のために」と僕は言った。

「無邪気に軽い発想で」と松本はうなずいた。

「ただしヘイトや差別の破片は、特にネットでは氾濫しています」

「彼自身には差別的な意識はないけれど、そうした差別的で邪悪な言葉や意識を拾い集めて、深く考えないまま身につけた可能性はありますね」

ミノムシだと僕は思う。子供のころに飼った。ミノを剥いで代わりに細かく切った紙や毛糸を入れれば、ミノムシは新たなミノを作る。たぶん深くは考えないまま。しばらく考えてから僕は言った。

「ただ、この思想を延長してしまうと、例えばホロコーストだって純然な差別といえなくなる。そもそもグレイゾーンだと思います。それこそ無理矢理にカテゴライズしないほうがいい。でも彼の犯罪の動機を、障害者に対する差別意識だとか優生思想だなどと安易にカテゴライズする世相やメディアに対しては、やはり異を唱えたくなる」

「同じ思いです」