このように蒙古軍は、じつは博多に上陸する前から、大きなハンディを負っていました。しかも、その後も「通説」では語られていない不利な要素が、以下をはじめ目白押しでした。
300隻の大船団から全軍2万6000人の兵士と、700~1000頭の馬が浜に上陸するには、30隻の上陸艇が、船団と浜の間を少なくとも10往復しなくてはならない。1往復に1時間ほどかかるので、全員が上陸するには10時間かかる。午前6時に上陸を開始したとしても午後4時になり、この季節ではもう暗くなりはじめている。
全軍が上陸するまでは待てないので、上陸した部隊から順次、進撃させたものの、船酔いで体力・気力は低下しており、戦力も不備だったため、士気でまさる日本武士との戦いでは苦戦をしいられた。じつは日本武士は一騎討ちで戦うことはほとんどなく、むしろ集団騎馬突撃によって蒙古軍を蹴散らした。
結局、蒙古軍は短期間で九州を制圧することはとうてい不可能と判断し、その日のうちに兵を引いたのです。これが、蒙古軍が一夜で撤退した謎の、おおまかな真相です。そもそも蒙古軍は、上陸戦で失敗していたのです。
船に引き揚げた蒙古軍は、本国への撤退を決意します。『元史』には、「冬月、元軍は日本に入り、これを破った。しかし元軍は整わず、また矢が尽きたため、ただ四境を虜掠して帰還した」と言葉少なに記述されています。
蒙古が恐れたのは、旧暦11月になると吹きはじめる北西風の季節風でした。この北西風が吹き始めると玄界灘は大荒れとなります。同時期の2006年ごろのデータを見ると、 12月から翌2007年の2月までは最大風速10m以上の日が59日間、最大風速は21mと強風が吹き荒れています。九州から朝鮮半島に帰るには向かい風、向かい波となるので風速、波高は大きくなり、当時の30m級帆船では航海できないレベルとなります。
実は蒙古軍の出撃を前にした6月に、高麗国王の元宗の病死という、不慮のできごとが起こりました。このことにより、日本侵攻は10月に延期され、出征は3ヵ月も遅れることになったのです。そのため、任務を遂行するにはあまりにも短い期間しかなく、最終的にこのことが元軍の決定的な敗因として響いたのです。
筆者は、船の設計者としての知識と経験をもとに、蒙古軍船の性能から地理的条件や気象条件までを検証し、最も合理的であると考える文永の役の姿を、この度上梓したブルーバックス 『日本史サイエンス』で再現してみました。ぜひご一読いただければと思います。
日本史サイエンス
蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和の謎に迫る
蒙古は日本上陸に失敗していた! 秀吉には奇想天外な戦略があった! 大和には活躍できない理由があった!日本史の3大ミステリーに、映画『アルキメデスの大戦』で戦艦の図面をすべて描いた船舶設計のプロが挑む。
「数字」から浮かび上がる、リアルな歴史!!