CGで完全再現したらわかった! 元寇で押し寄せた蒙古軍船の弱点

船酔い続出で戦意喪失だった!?
播田 安弘 プロフィール

当時の高麗による造船を知る手がかりとして、2005年に中国で発掘された、「蓬莱3号」と呼ばれる高麗の大型軍船があります。

【写真・図】発掘された蓬莱3号と木釘による連結発掘された蓬莱3号(上)と、木釘のよる連結(左が側外板の連結、右が底外板の連結:佐々木蘭貞氏作成)

14世紀につくられたこの船は、形状は曲線が少ない箱型で、主要な連結には木釘が使われていたと思われます。木釘は鉄釘に比べて強度は5分の1ほどしかないうえ、互いに「ほぞ」を彫って正確に合わせる必要があるので、建造にも時間がかかります。

しかし、高麗船の歴史にくわしい水中考古学者の佐々木蘭貞氏は、蓬莱3号は中国と高麗のハイブリッド船であるとして、中国船のように船体構造に隔壁を入れて強度を上げていたことが特徴的で、蒙古軍船もまた、同様の構造であった可能性があると指摘しているのは興味深いところです。

2017年の11月から12月にかけて、北朝鮮の漁船が北西風に流されて、日本海側に大量に漂流してきたことがありました。その船型は、船首は細くしているものの、船底は平らなままの単純でつくりやすい形状で、極端にいえば、高麗時代の川船の船首部を細くしただけともいえます。

これに比べると、江戸時代からの和船は、船底は平底ではなくV字形で、推進性能や波切り、波浪中の安定性は現代船と変わりません。底が平らな船は、海を航走するための形状ではないことは明らかです。

【写真】北朝鮮の船と和船北朝鮮の船(左)は船底が平らで波切りが悪く、波の衝撃が大きい。和船の船底葉はV字型で、波切りがよく、衝撃が小さい。現代の高速艇に似た形状

発掘された高麗の「蓬莱3号」や、中国の「ジャンク船」といわれる木造帆船、日本の千石船などを参考にして、元寇当時の蒙古軍船を設計復元してみました。

850年前の蒙古軍船を再現!!

船舶の建造計画では通常、類似船がある場合は、その排水量の1/3乗比で長さ、幅、深さを決めて概算配置図を作成し、重量などを算出します。そこで各種の船を参考として、船型や船内配置、概算重量を算出し、トライアンドエラーを繰り返しながら、蒙古軍船の内部の構造を固めていきました。

その結果、高麗建造の蒙古軍船は全長28m、幅9mもの大型船となることが推定されました。乗員は1隻当たり、兵士と兵站兵で120名、船員60名の180名と推定しました。

これらのデータをもとに、内部構造の図面を描き、コンピュータグラフィクスを用いて復元図も作成してみました。

【写真】蒙古軍船の内部構造とCGで再現した蒙古軍船蒙古軍船の内部構造(上)と、CGで再現した蒙古軍船。CG復元図の拡大画像はこちら

外板は厚板で強度をもたせ、肋骨はなく、内部は梁で突っ張り、甲板は全通で梁があります。強度を保持するため船底は二重にして高さ約1mの空間を設け、そこに1.8mごとに肋骨を設けました。この空間には水や重心低下のためのバラスト石を搭載しました。

兵士や船員の居住区は、上甲板下に設けました。1名当たり長さ1.8m、幅0.8m、高さ0.8mの2段ベッドとして164名分を確保し、中央部と側部に通路を設けました。梁は全幅9mにわたって連結されるため強度が不足するので、中央通路部に支柱を立てて保持しましたが、構造とベッドが交錯し、通行上はかなり不便です。

さらに、士官と上級船員あわせて16名の居室と航海室や、食堂などは上甲板後部の構造物に設けました。また、厠(かわや)は船尾に設けました。底板に穴が開いているだけのものですが、いまから50年くらい前の漁船や機帆船の厠はこのような構造でしたので、それに倣いました。

馬小屋は上甲板前部に設けました。軍馬には大量の水や飼葉と、糞尿処理が必要なことから通風の悪い船倉内での運搬は困難と考えられるからです。軍馬の数は、文永の役で捕虜となった蒙古兵の証言に、軍船1隻に軍馬は5頭積んでいたとあったのを採用しました。

上甲板には前述の通り後部に士官用居室や食堂、馬小屋などがあるほか、帆柱やウインチ、帆操作ロープが多く張られ、船倉ハッチもあります。さらに、飲料水の搭載が船底だけでは不足するので、上甲板上にも水甕を配置しました。

これらの推定をもとに、重量、重心や復原力を検討しました。復原性の目安であるメタセンタ高さ(GM値)が1mはあるため、帆に横方向から突風が吹いても復原性に問題はありませんでした。また、横揺れに関しても適正な範囲にあり、航海上の大きな問題はないものと考えられます。

蒙古軍艦隊の全容を推測してみる

元が高麗に建造を命令した軍船について、材料である木材の量や、人材についてもかなり難しい要求であると想定されましたが、要求された大型軍船の概要を再現してみると、規模の上からも、高麗が6ヵ月で300隻も建造することは、とうてい不可能であるということがわかりました。したがって、実際の蒙古艦隊の規模は、大型・中型の合計で約300隻としたと推定されます。

蒙古軍船団の陣容

軍船

  • 新たに建造された大型軍船:150隻ほど
  • 「三別抄(さんべつしょう)」鎮圧時の中型軍船:150隻ほど

*三別抄(さんべつしょう):元に抵抗していた高麗の軍事組織。鎮圧により1273年に壊滅

兵員

  • 1隻当たりの乗員(大型軍船):兵士と兵站兵で120名、船員60名の180名
  • 1隻当たりの乗員(中型軍船):兵士と兵站兵で95名、船員19名の104名(三別抄攻撃の記録より推定)
  • 総勢:約4万4000名(うち戦闘にあたる兵士の数:およそ2万6000名)

以上のように、見積もられます。軍馬については、前述のように蒙古の捕虜の証言から1隻当たり5頭までとし、蒙古艦隊すべてでは700〜1000頭前後であったと推定します。

一般的な軍隊の編制では、100人の部隊があれば3%、つまり3名の指揮官が騎乗して指揮をとります。蒙古軍の兵士と軍馬の割合はちょうどそのくらいであり、つまり指揮官クラスのみが乗馬し、そのほかは歩兵部隊という平凡な編制で、騎馬軍団というには値しないものだったことがわかります。

また、歩兵の多くは高麗兵だったと推定されます。というのも、副司令官には高麗人がいたからです。戦闘時には言葉が通じないと命令ができないので、高麗兵を指揮するために高麗人の将校が必要だったのです。つまり、実際に戦ったのは、蒙古兵の中に雇われ高麗兵が多数混じった、いわば寄せ集めの歩兵軍団だったと思われます。

このように考えていくと、日本を襲った蒙古軍の実体は「単騎の日本武士に集団で襲いかかる蒙古騎馬軍」といった通説とは、少なからぬギャップがあったようです。