「育ちがいい」とトクして「育ちが悪い」と損をする、この社会の現実

あるベストセラーから考える
熊代 亨 プロフィール

本書に対する人々の反応を見るに、本書を特徴づけているのはやはり、「育ちのよさ」というキーワードだ。ともすればコンプレックスを刺激する「育ちのよさ」がタイトルに掲げられ、文中にも「育ちのよさ」という言葉がたびたび登場するからこそ、本書はたくさんの人を惹きつけ、話題になったのではないだろうか。

ではなぜ、今、「育ちのよさ」が問題になるのか。

 

複雑化する能力主義と「育ち」の問題

かつて、いわゆる「一億総中流」と言われた時代には、「育ち」は今日ほど意識されていなかったはずである。もちろんハイソサエティな領域では「育ち」が絶えず値踏みされていたし、収入面で日本人が横並びになったわけでもなかった。それでも、当時は「育ち」を意識せずとも就職できる人、結婚できる人が多かった。むしろ、戦前まで「育ちのよさ」を示す兆候とみなされていた所作や振る舞いが否定され、アメリカに影響された、自由を重んじる若者文化の所作や振る舞いが台頭したのが戦後日本の風景ではなかっただろうか。

戦後日本の人々が問われたのは、学歴や実力そのものだった。太平洋戦争という”リセット”を経たことによって、日本社会の格差は経済的にも文化的にも縮まった。「育ち」が悪くても難関大学に入学して出世する人、中卒や高卒でも実力で這い上がっていく人がたくさんいて、そうした人々が憧れの的にもなっていた。

出自や「育ち」より、学歴や実力によって社会的地位が決まるという意味では、戦後日本は能力主義(メリトクラシー)的な社会であり、出自による機会の不平等が薄まった社会だったといえる。

ところが戦後から75年が経つなかで、日本社会は徐々に変質していった。いったん縮まったはずの格差は世代を経るにつれて再び拡大し、難関大学の入学者は経済的にも文化的にもアドバンテージのある家庭の子息に占められつつある。田中角栄のような、低学歴のヒーローが憧れの的になることも無くなって久しい。