【戦争秘話】終戦後、命がけで残留日本兵の捜索に当たった男がいた!

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神立 尚紀 プロフィール

山中に置き去りにされた傷病兵

昭和12(1937)年、海軍経理学校を卒業した岡田貞寛は、戦艦「榛名」「金剛」で庶務主任(民間会社で言えば文書係長)を務めたのを皮切りに、主計長として駆逐隊、航空隊、水上機母艦などさまざまな艦船や部隊を渡り歩いた。

 

そして、マリアナ諸島のサイパン、テニアンが敵手に落ち、連合軍のフィリピンへの侵攻を目前に控えた昭和19(1944)年8月5日付で、セブ島の第三十三特別根拠地隊主計長に発令された。

昭和19年8月、フィリピン・セブ島へ出陣前の岡田貞寛氏。戦死を覚悟し、「合同慰霊祭の遺影」用にと撮影された1枚

10月17日、米軍がレイテ湾口に浮かぶスルアン島に上陸、フィリピンは、マリアナ諸島に続く日米決戦の戦場となる。

日本海軍は、レイテ島に上陸する米軍の大部隊を軍艦の砲撃で殲滅すべく「捷一号作戦」を発動、聯合艦隊のほぼ全戦力を注ぎ込んで挑んだが(10月23日-26日、比島沖海戦)、制空権を敵に握られ、戦艦「武蔵」「扶桑」「山城」、空母「瑞鶴」「瑞鳳」「千歳」「千代田」をはじめ多くの艦艇を喪うなど、再起不能となるほどの大敗を喫した。

米軍はレイテ島を足がかりに、12月15日にミンドロ島、昭和20年1月9日にはルソン島に上陸、さらに攻勢を強めてくる。19年12月26日には、軍令部員としてルソン島を視察中の岡田貞寛の兄・貞外茂(さだとも)海軍中佐が、乗機の墜落で戦死している。

フィリピン地図。赤丸印がセブ島、青丸印がレイテ島

その間に岡田は、これまでの主計長の職に加えて、根拠地隊司令部の副官を兼務することと、自らの主計少佐への進級の辞令を、内地からの無電で受け取った。ところが、最前線のセブ島には、副官が軍服の肩から下げる白い副官飾緒も、主計少佐の階級章も在庫がない。

そこで、飾緒は、米軍機が投下した落下傘爆弾の不発弾の紐を三つ編みにして作成し、主計少佐の階級章(主計科を示す白線にはさまれた金筋2本に桜が一つつく)は、(1)壊れた飛行機のジュラルミン板を所定の形に切り出して、(2)それを落下傘爆弾の白いパラシュート生地で包み、黄色い信号旗の切れ端を金筋代わりに巻き、(3)その真ん中を黒い糸で分割して2本に見えるようにし、(4)大尉の階級章から外した桜を一つつけて、手作りで間に合わせた。

米軍はさらに、ベルデ島、ルバング島(昭和49年まで小野田寛郎陸軍少尉が潜んでいた島)、パラワン島、ミンダナオ島など、フィリピンの島々に上陸し、3月26日にはセブ島中東部のタリサイ海岸に上陸。セブ島には、第三十五軍を主力とする1万5千余名の陸軍部隊と、陸戦隊や少数の特殊潜航艇部隊からなる5200名の海軍第三十三特別根拠地隊がいたが、その多くは傷病兵や飛行機の整備員などで占められていて、戦闘能力は低かった。

昭和20年3月26日、セブ島タリサイ海岸に上陸するアメリカ軍

司令官・原田覚少将が率いる海軍部隊は、特殊潜航艇で周辺海域の敵艦船への攻撃を繰り返し、敵輸送船を撃破するなどの戦果を挙げたが、米軍の上陸後は、米軍に呼応して蜂起したフィリピン人ゲリラ部隊の襲撃も受けるようになった。そして、必死の戦いもむなしく、陸海軍ともに島の中北部、アストゥリアス東方の山岳地帯に追い詰められてゆく。

岡田たち海軍部隊司令部が、終戦を知ったのは8月16日のことである。山中に携行した無線機で、電源が手回し式発電機のためとぎれとぎれに受信した新聞電報から、日本が降伏したらしいことを悟った。

しかし、現地部隊がどう対処したらよいのかはさっぱりわからない。25日、陸軍部隊が米軍と接触して終戦を確認、28日、陸海軍の司令官がセブ島北部のイリハンで停戦式に臨み、武装解除を受けた。同じ日の夕刻、岡田は、停戦式に出た司令官・原少将から届けられたメモで、

「この一帯の警備は、9月1日より米軍からフィリピン軍に代わる。フィリピン人は日本軍に悪感情を抱いているから、万難を排して31日までに西海岸に出るよう、各隊に至急命令せよ」

との指示を受けた。

昭和20年8月28日、セブ島北部イリハンでの日本軍降伏式

山にこもっている部隊はそれぞれ、マラリアやアミーバ赤痢などの風土病や栄養失調で動けない重病人を大勢抱えている。放置されれば、彼らのほとんどは衰弱死するのが目に見えていた。だが、通信手段もなく、どこに潜んでいるかわからない者も多く、3日で山中のすべての将兵に連絡し、下山させることは不可能である。

先任参謀・志柿謙吉大佐の判断で、元気な者だけを連れて山を下り、傷病兵は追って迎えに行くこととして、岡田が、司令部の付近にいた数十名の下士官兵を率いて下山したのは8月29日のことだった。

「これは結果論で言えば痛恨の決断。山を下りて海岸道路に出るのが多少遅くなっても、傷病兵を連れて出るべきだったと、いまも申し訳なく思っている」

と、岡田は晩年、語っている。

米軍の捕虜収容所に送られた岡田は、傷病兵の救出を米軍将校に直訴、司令官に手紙まで書いたが、それが叶わないまま、一緒に投降した他の将兵とともに、レイテ島タクロバンの捕虜収容所に移送された。