フィリピン・セブ島で、残留日本軍将兵の捜索に当たった岡田貞寛主計少佐(撮影時は大尉)

【戦争秘話】終戦後、命がけで残留日本兵の捜索に当たった男がいた!

父は、二・二六事件で命を狙われた首相
昭和20(1945)年8月15日、3年9ヵ月におよぶ太平洋戦争が終わった。だが、南方の戦場では、終戦を知らずに、なおも山中に潜伏し、あるいはゲリラ戦を続ける日本軍将兵が少なからずいた。
捕虜になることを潔しとしない彼らを探し出して戦争の終結を知らせ、武装解除を促すことは、容易なことではない。米兵だけで呼びかければ、「敵に包囲された」と受け取って突撃してくるか、逆に自決してしまうかもしれないし、日本人であっても、「米軍の捕虜になった者が強要されて、降伏勧告にきた」と誤解されれば射殺されかねないからである。だが、戦争が終わった以上、彼らを投降させ、無事に日本に帰さなければならない。
――終戦後、そんな困難な任務に、命がけであたった人たちがいた。二・二六事件で叛乱軍に命を狙われた岡田啓介首相の次男・岡田貞寛海軍主計少佐もその一人である。
 

「戦争は終わった! 迎えにきたぞ!」

ゆるやかな起伏のある草原地帯に、小さな森が点在している。岡田貞寛海軍主計少佐は、現地人の案内で、森の一つに入ってみた。すると、そこには何者かが煮炊きした跡らしく、竈(かまど)状に組まれた石が黒く煤けて残されている。

「このあたりにいるはずだ」

周囲を見渡すと、2~300メートル先に、人が身を隠すのにちょうどよさそうな、木が生い茂る小山があった。岡田は、同行する7~8名のアメリカ兵とともに、小山に向かって歩き始めた。すると、手前の木立に、茶色いものが動いているのが見える。遠くて判別がつかないが、あれは日本兵ではないだろうか。

「戦争は終わった! 迎えにきたぞ!」

岡田は、その「茶色いもの」に向かって叫んだ。けれども、何の反応もない。そのうち、それがスーッと左に動いて、小山の方へ消えていった。

「なんだ、犬か」

拍子抜けして、岡田は米兵たちとともにその場を離れた。

――昭和20(1945)年10月末、フィリピン・セブ島北部に位置するソゴト集落の西、島を東西に横断する道路の南側でのことである。

岡田貞寛氏。昭和18年、海軍主計大尉時代。第一種軍装を着て

2ヵ月半前の8月15日に戦争は終わり、セブ島の日本陸海軍部隊は8月28日、米軍によって武装解除を受けている。だが、セブ島では、同年3月26日に米軍が上陸し、6月下旬までに主要拠点が制圧されたのちも玉砕を逸ることなく、小部隊ごとにジャングルに身を潜めて持久戦を続けていたために、いまだ終戦を知らずに戦い続けている者も多かった。

そこで米軍は、セブ島の海軍第三十三特別根拠地隊で主計長兼副官を務めていた岡田に、山中に潜伏する日本軍将兵に戦争終結を知らせ、投降を呼びかける危険な任務を命じたのだ。

岡田貞寛主計少佐は、大正6(1917)年1月15日生まれ。父は、聯合(れんごう)艦隊司令長官、海軍大臣、内閣総理大臣などを歴任し、海軍きっての良識派と目されていた岡田啓介海軍大将である。

父・岡田啓介は、総理大臣だった昭和11(1936)年2月26日、陸軍の青年将校らがクーデターを企てた二・二六事件のさいに叛乱部隊の襲撃を受けたが、義弟・松尾伝蔵陸軍大佐が身代わりとなって難を逃れていた。

岡田貞寛氏の父・岡田啓介海軍大将(左)と、二・二六事件のさい、身代わりとなって命を落とした義弟・松尾伝蔵陸軍大佐

大戦末期には、早期講和を画策し、東條英機内閣倒閣、終戦工作に奔走。和平派の高松宮宣仁親王、米内光政、井上成美、高木惣吉らとともに戦争を終結に導いた影の功労者である。