2020.09.06

「現代の価値観で過去を裁くな」論のおかしさ〜BLM運動の「銅像破壊」を巡って

日本にとっても他人事ではない
岩崎 稔 プロフィール

第一に、引き倒された銅像や記念碑は、たいていはその行為が行われた時代状況そのものではなく、それからずっと下ったある特定の時代に、つまりすでにそうした過去を弁明する必要が生まれ始めた時代に作られたものであることが多い。

たとえば、19世紀の一時期、イングランドでは「銅像の時代」と呼ばれるほどに通りのあちこちに大英帝国を顕彰する銅像が建てられたことがあった。ドイツでも、19世紀の後半の時期に、しきりに記念碑が作られた時期があったが、それはむしろ現実の世界が科学技術によって合理化され、そのために殺伐としてきた生活の空虚を穴埋めするものとして、自分たちを肯定できる「歴史」が必要になったからであった。

哲学者のニーチェが『反時代的考察』の第二考察で「歴史の記念碑的在り方」として批判したものがそれである。

この時代のズレを見れば、銅像や記念碑はそのまま「過去そのもの」などではなく、過去をめぐるある歴史解釈が形をなしたものであることが分かるはずだ。つまり、そこでの対立は、「過去そのもの」か「現在の基準」かではなく、すでにそうした銅像を通じて奴隷制を擁護し、植民地主義を称えることで自分たちの支配的な秩序を維持しようとした行為か、それを根本から見直そうとする行為か、ということにある。植民地に関わる銅像や記念碑は、その顕彰行為の裏側に隠れている植民地主義の罪責の指標にもなるはずだ。

 

つねに「特定の立場」を選んでいる

第二に、そもそも「現在の基準で過去を裁くのはよくない」という主張は、ひとつの錯覚から成り立っていることに注意したい。

この主張では、まるで当然のこととして、「過去そのもの」がそれ自体として特定可能であり、それとは別にわたしたちの「現在の価値観」というものがあるかのように考えられている。しかし、「現在の基準で過去を裁くな」と主張をするひと自身が、本当に「現在の価値観」からまったく自由に「過去そのもの」を想定できているのだろうか。

そうした思い込みとは違って、わたしたちはつねに現代の価値の対立のなかで、きまって特定の立場、特定の判断を暗黙のうちに選び取っている。たとえば、銅像や記念碑の破壊活動を批判するひとは、現在のBLM運動とは親和的ではない「価値観」を持っていると考えられる。

「過去そのもの」と思い込まれているものも、どこまでもわたしたち自身が想起することであり、あるいはわたしたちの社会が過去として描き出しているものなのであって、わたしたちはすでに特定の価値観をもってそれに関与しているのである。

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