横行する「差別の軽視」

大坂選手の決断に対する否定的な意見には、「支えてくれている人や敗者など関係者のことをもっと考えるべき」といった周りに迷惑をかけることを非難する声が目立つ。対して、決断を支持する人は、関係者への影響はもちろん試合に出ないという選択がアスリートにとって重い決断だという点を考慮したうえで、「そうしてまで訴えたいことがある」と解釈するのだと考えられる。

開催中の全米オープンで、警官による過剰ば暴力や銃撃に遭った黒人被害者の名前を記したマスクを着用している大坂なおみ選手〔PHOTO〕Getty Images

この2者の違いは、差別問題の捉え方に依っていると私は考える。決断を批判する人にとっては、大坂選手が差別を訴えることは試合に出ないリスクに比べて考慮するに値しないものであり、決断を支持する人にとっては、彼女の訴えはリスクを取るに値する大切なことなのだろう。

だがここで忘れてはならないのは、差別への抗議とは、人間の尊厳や対等性といった社会に前提としてあるべき部分への訴えであり、関係者のことを考えるべきといった基本的人権が担保されているうえでの問題とは本質的に異なるという点だ。

差別が無くなっていない現実の中で、今この瞬間も世界各地で多くの人がその尊厳を守るべく闘っている。その闘う一人として大坂選手は、冒頭の声明文にあるように「自分はアスリートである前に一人の黒人女性である」と述べたのだ。

大坂選手の生きるうえでの根幹に関わる訴えに対して、試合に出ないリスクを理由に批判するという行為は、「差別の軽視」を意味しているといっていいだろう。