馬場千枝さんの連載「お金と女の人生」、誰もが生きていくうえで必要なお金にクローズアップして、様々な女性の生き方をお伝えしている。
今回取材に答えてくれたのは、1980年代のバブル期に大手企業勤めの男性と結婚し、寿退社。専業主婦として生きてきた本田華子さん(仮名・63歳)。その結婚生活は、私たち下の世代が思うほど、決して気楽なものではなかった。

夫のことを、ごく自然に「主人」と呼ぶ彼女は、周囲の都合に合わせて尽くす人生が長かった。仕事に邁進する夫のサポート、家事育児、義父母・実父母の介護、転勤生活。お金についても、主婦には自己決定権がほとんどない。そんな中で日々を懸命に生きてきた彼女は、今、育児も介護も終えて、残りの自分の人生を考える場所に立っている。

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まわりに合わせて生きていた

1980年に四年制大学を卒業した華子さん。男女雇用機会均等法が制定される前の時代、短大卒女性の方が就職に有利という厳しい就活で、建設業界の大手企業に就職した。とはいえ当時は寿退社が当たり前。彼女も24歳で結婚し、退社した。社会人生活はわずか2年間だ。

「もう少し、長く勤めて社会のことをわかってから結婚してもよかったかもしれない。当時の30歳は、今の40歳みたいなイメージで、大年増なんです。クリスマスケーキみたいな言い方もあって、24歳だからぎりぎりでよかったね、なんて。確かに私が結婚して、親もまわりも喜んだけど、優等生でつまらなかったとも思う」

結婚後は専業主婦だったが、決して三食昼寝付きのノンビリ生活ではない。夫は応用化学分野の研究職で、部下も多く、その慰労も仕事のうちだった。年に数回、自宅に20人くらいの部下を呼んで、食事を出してもてなすのも、華子さんの役目だ。また研究者の中で誰かが受賞するとお祝い金を出し、仲人も3回やり、さまざまな学会の年会費も自費で払っていたという。

自宅に20人の来客で食事はすべて華子さん…それが珍しい光景ではなかった。そうして夫の部下を慰労することも自身の役割だとつとめていたのだ Photo by iStock

高額出費の極めつけは、バブル期での自宅購入だ。新婚時代は夫が購入したマンションに暮らしたが、人が大勢やってくるような生活だから、立場的にも大きめの一軒家が必要だった。マンションを売り、ローンを組んで買い換えた。茶室もあるような立派な家だった。

収入は多いけれど、出費も多いという生活の中で、華子さんは流産を経験しながらも一人娘を授かり、育児に大変な時期に義父母の介護もスタート。まだ20代から30代前半という若さだったから、無我夢中で乗り切った。すると次に始まったのが転勤だ。首都圏近郊の他、広島で7年ほど生活したこともある。

「本当に引っ越し貧乏です。家のローンを払いながら、社宅費も払うし、引っ越し費用も持ちだしがありました。自宅を人に貸す手間も大変ですし、子どもの学齢期にも引っかかり、転勤先から受験させるのにもいろいろ悩んで、常にお金の問題はありました。あくせくして、遊んでいる暇もなかったです。ちょっと旅行といっても、会社の保養所とか、千葉のシーワールドとか、国内のハワイとか。高齢の両親を連れて行くなら箱根あたり。主人の休みも少ないし、遠方には行けません。子どもは親と楽しくしていれば、どこへ行っても同じ。みんな忘れてしまっても、楽しい気持ちが残るから。そんなものなんですね」

20代から40代の子育て時代を振り返ると、それは徹底した役割分業ライフだ。今でこそ、スーツ姿に抱っこ紐で赤ちゃんの送迎をする父親は珍しくないが、当時は夫にゴミ出しをさせるのもはばかられる。ちょっと出かけようとすると、「今日はどちらへ?」と近所の主婦にチェックされる。

「子どもに留守番をさせて出かけることはないし、主人が自宅にいるときに出かけるなどありえないし。子ども同士は仲良しなら、苦手と思うママともつきあわないといけない。我慢一途で、家族の無理を聞くだけの役目。まわりに合わせて生きてきちゃったんですね。自分のためにお金を遣ったこと、あったかしら、という暮らしでした」