藤田怡與藏さんの戦中・戦後(右写真撮影/神立尚紀)

日本人初のジャンボ機機長となった歴戦の零戦パイロットの死生観とは

真珠湾から終戦まで常に最前線で戦う
アメリカの航空機メーカー大手・ボーイング社は、7月29日、「ジャンボジェット」の愛称で知られるボーイング747型機の生産を、2022年をもって打ち切ることを発表した。
747は、日本が大阪万博に湧いた1970年、華々しく就航して以来、半世紀にわたって「旅客機の顔」として親しまれたが、旧式化と燃費効率の悪さに加えて、新型コロナウィルスの感染拡大による旅客需要の急減が退役を早めたとみられている。
747シリーズの生産機数は累計で1500機を超え、日本でも日本航空と全日空、日本アジア航空、日本貨物航空が導入、政府専用機としても採用されるなど、長年にわたって活躍した。そしていまから50年前、そのジャンボジェットの日本人初の機長となったのは、真珠湾攻撃にも参加した歴戦の零戦パイロットだった――。
 

零戦とジャンボ機に共通していたこと

「ボーイング747(ジャンボジェット)は素直な、乗りやすい飛行機でした。零戦とジャンボ、大きさは全然違いますが、どちらも着陸がしやすくて、操縦感覚には不思議と共通するものがあったんです」

と、藤田怡與藏〈ふじた いよぞう〉さん(1917-2006)は筆者に語った。藤田さんは太平洋戦争中、海軍の戦闘機搭乗員として、真珠湾攻撃をはじめ、ミッドウェー海戦、ソロモン航空戦、硫黄島、フィリピンでの激戦など、つねに最前線で戦った。

藤田怡與藏さん(著者撮影)

昭和16(1941)年12月8日の真珠湾攻撃に参加した搭乗員のうち、昭和20(1945)年8月15日、終戦時の生存者は約二割に過ぎないから、藤田さんが生きて終戦の日を迎えたのは奇跡的とも言える。戦後、日本航空に入社し、1970年、日本人初の747機長となった。

昭和17年後半、空母「飛鷹」分隊長の頃の藤田大尉

零戦は一人乗りで、藤田さんが真珠湾やミッドウェー海戦で搭乗した二一型の場合、全長9.06メートル、全幅12メートル、自重量1671キログラム(零戦搭乗員会編『海軍戦闘機隊史』)。いっぽう、ボーイング747は、初期型である747-100型で、全長70.6メートル、全幅59.6メートル、自重量162.4トン、乗員3名(+客室乗務員)、乗客数(日本航空国内線)563名と、比較にならないほどのスケールの差がある。

空母を発艦する零戦二一型
藤田さんが日本人初の機長となった、日本航空のボーイング747-100(JALホームページより)

その両者の「操縦感覚が似ていた」と言うのは、一見、禅問答のようでもあるが、戦中、戦後を通じて、空を飛ぶことを究めたパイロットならではの実感だったのだろう。

ボーイング社が開発した巨大ジェット旅客機・ボーイング747は、1970年の就航以来、「ジャンボジェット」の愛称で広く親しまれてきた。日本では政府専用機としても2機が導入されている。

だが、旧式化と燃費効率の悪さから、より小型で効率のよい新型機へと世代交代が進み、そこへコロナ禍による需要激減が追い打ちとなって、ついに 7月29日、ボーイング社は、747の生産を2022年をもって打ち切ると発表したのだ。すでに多くの航空会社から姿を消し、花形機材の座からは退いているとはいえ、ひとつの時代が終わるような寂しさを感じるニュースである。

そこでここでは、747への手向けとして、零戦で戦い、ジャンボジェットで世界の空を飛び続けた男の生涯を振り返ってみたい。

中国天津生まれの少年がパイロットに憧れ

藤田怡與藏さんは、大正6(1917)年、中国・天津で生まれた。父・語郎さんは医師で、天津で病院を営んでいた。藤田さんは小学生の頃、天津に飛来した日本陸軍の飛行機の姿に憧れ、パイロットを夢見るようになる。

天津の小学校を卒業した藤田さんは、父の郷里である大分県の県立杵築中学校(現・杵築高校)に進学。陸上競技部に入部し、短距離選手として活躍した。当時、飛行機に乗りたければ、陸軍か海軍に進むのが早道である。中学5年のとき、海軍兵学校を受験、難関を突破して昭和10(1935)年4月、六十六期生として入校する。

在校中の昭和12(1937)年7月7日、中国・北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突、戦火はまたたくまに広がり、支那事変(日中戦争)が始まった。そのため、教育期間は半年短縮されることになり、昭和13(1938)年9月、卒業。この年、藤田さんの卒業を見届けることなく、父・語郎さんは脳溢血で急逝していた。