撮影/大友信彦(菅原裕実さん提供の写真以外すべて)

15歳で故郷釜石を離れた少女にラグビーW杯が与えてくれた宝物とは

国際派ビジネスウーマンの故郷との再会

夢が実現する直前、故郷を大震災が襲った

「しあわせな時間でした。最初から最後までワクワクして、あの場にいられたことが本当に幸せで…何よりも、釜石という町が好きになりました」

釜石市出身で東京都在住、大手石油会社で働く菅原裕実(すがわら ひろみ)は笑みをうかべて言った。

ラグビーワールドカップは、15歳で故郷釜石を出た少女が、20数年のときを経て、改めて故郷との関わり方を知り、自分のルーツを見つけ、たくさんの人と繋がるチャンスを作った。

釜石鵜住居復興スタジアムで開催されたラグビーワールドカップ、フィジー対ウルグアイ戦に、ボランティアとして参加した菅原裕実さん(写真は菅原さん提供)

ラグビーワールドカップは、釜石で育つ若い世代だけでなく、故郷釜石を離れた、かつての子供たちにも故郷との新しい関わり方を見つけさせてくれた。

 

裕実が、故郷の釜石がラグビーワールドカップの開催地に立候補していると知ったのは、2014年の暮れ頃だった。

裕実の心の中によみがえったのは、中学3年生のときの「三陸・海の博覧会」だった。1992年夏、74日間の開催期間に201万人が訪れた。裕実の家にも親戚が週ごとに訪れ、みんなで釜石市平田(へいた)地区に設けられた会場に行き、パビリオンを訪ね歩いた。裕実も3度訪れた。いつもは静かな町に賑わいが訪れた、夢のような時間だった。

だが、多感な15歳は、高揚感と同時に、冷めた感覚も抱いていた。

これは日常じゃない。一過性のものでしょ……。

かつて9万人に迫った釜石市の人口は、裕実が生まれた頃に7万人を割り込み、中学3年生になる頃には5万人近くまで減っていた。市の産業の基幹である製鉄所の高炉の火は消え、同級生たちが次々と転校で町を離れていった。町では閉店する店が相次いだ。

この町を出たい、と15歳は思った。裕実は英語が好きだった。大人になったら外国に行ってみたい、世界の人たちと仕事をしたいと自分の未来を描いていた。さびれていく町で10代の時間を過ごしたくなかった。

裕実は地元の進学校である釜石南高ではなく、宮沢賢治や石川啄木が学んだ県内一番の難関校、盛岡一高を受験して合格、15歳で故郷を離れた。そこから早稲田大学の法学部に進み、法律事務所などへの勤務を経て27歳で外資系石油会社に転職。法務部門で働いていたが、32歳のときに社内公募の試験を突破して2009年に国際貿易の部署に異動した。

思春期に思い描いた未来は現実となった。2011年、裕実は念願だった海外勤務のチャンスを得た。シンガポールでの事業だった。赴任は5月中旬の予定だった。

その出発を控えた3月、東日本大震災が襲った。

釜石市の実家は津波の届かない内陸の上中島にあり、家族も無事だった。とはいえ、テレビで見た故郷の映像は裕実の胸を締め付けた。思春期には複雑な思いを抱いた時期もあったが、かけがえのない故郷だ。

夏場は毎週のように海で泳いだ。夏祭りの虎舞、盆踊りの賑わい。冬は山あいに期間限定で出現するスケートリンクで遊んだ。ひとつひとつの何気ない記憶と光景が、鼻の奥で疼いた。

故郷が傷ついている。私に何かできることはないのか……そんなもやもやを抱えているとき、シンガポールへの出発を1ヵ月早めろという辞令が下った。

なんでこんなときに? 湧き上がってきたそんな思いを、裕実は必死に押さえ込んだ。だが、うしろめたさは消えなかった。計画停電と物資不足、余震の連続、原発事故と放射能漏れへの恐怖……そんな現実から、自分は逃げ出そうとしているんじゃないのか。

現地に着いても自問自答は続いた。赤道直下のシンガポールでは、どこへ行っても24時間エアコンがフル稼働している。寒いほどのオフィスでパソコンに向かいながら、計画停電で冷蔵庫のものが溶けて困っている東京の友人たちの姿が、冷房のない体育館の避難所で寝起きする故郷の人たちの姿が頭をよぎった。