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2011年3月、原発事故「最悪のシナリオ」を作った科学者の証言

近藤駿介×細野豪志【前編】

2011年3月11日、東日本大震災によって引き起こされた福島第一原発事故。事故発生から数日の間に1号機、3号機、4号機が次々と爆発し、日本と世界を震撼させた。

そのとき、首相官邸の要請で策定された「最悪のシナリオ」があった。莫大な量の放射性物質が撒き散らされ、東京からも避難せねばならなくなる――。現実には、そのような事態は辛くも避けることができたが、当時の政府関係者と原子力関係者は未曾有の緊急事態をどう見ていたのか。

2011年3月25日に発表された技術的予測「福島第一原子力発電所の不測事態シナリオの素描」の作成者で、当時原子力委員会委員長を務めていた近藤駿介氏に、首相補佐官として当時事故対応にあたった細野豪志衆議院議員が話を聞いた。(構成・林智裕、ライター

「最悪のシナリオ」までの2週間

細野 今日は、高レベル放射性廃棄物の最終処分を取り扱うNUMO(原子力発電環境整備機構)という組織のトップであり、3.11当時は原子力委員会委員長を務めていた近藤駿介さんからお話を伺いたいと思います。近藤さんは、東京大学工学部で長年教鞭をとられた日本有数の原子力の専門家です。

原子力委員会は原子力政策を決める組織(内閣府におかれた諮問委員会)で、規制側の立場ではなかったわけですが、事故が起こった当時に委員長として何をお感じになったのか、伺えますか。

近藤 まず「原子力安全委員会」と「原子力委員会」の違いから説明しますと、当時は原子力委員会に並立して設置されていた「原子力安全委員会」が、原子力災害が起きた際、総理のアドバイザーとして災害対策本部における防災対策の立案などにあたることになっていました。一方、「原子力委員会」には、原子力災害対策にかかわる役割の規定はありませんでした。

ただ、私は原子力委員長をお引き受けするまで大学で原子力工学の研究・教育に従事し、特に原子炉の事故についての確率論的リスク評価技術を専門にしてきました。行政組織の技術顧問も長く勤めていましたので、原子炉の過酷事故(シビアアクシデント)に関する知見は有しておりました。

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2011年3月11日は、地震が起きてすぐ、これは尋常ならざる事態だと感じ、委員会事務局に連絡して、太平洋岸に立地している原子力発電所が安全停止したかどうかを調査・報告することを求めました。しばらく経って、テレビで津波が迫っていることを知り、どうなることかと気をもんでいたら、福島第一原発が全交流電源喪失に至ったとの知らせが入った。そうなると、絶対に維持しなければならない停止時炉心冷却機能を確保する手段が限られてしまいます。現場の皆さんの安全を念じつつ、その日は帰宅しました。

細野 私は11日から官邸に詰めて、15日から東電本店で対応しましたが、当時は原子力安全・保安院と経済産業省、エネルギー庁が混然一体としていて、原子力に詳しい人間はほとんど東電に集まっていたわけですね。

そのとき、多くの原子力系官僚が近藤先生の知見を聞きたいと話すのをよく聞きました。原子力の安全規制行政は原子力安全委員会と保安院がやっていましたが、原子力委員会のトップである近藤先生を頼る声が現場では多かった。

近藤 私は原子力委員会の委員長に就任する前、原子力安全委員会の技術顧問として、安全確保に関するルール作りや安全規制行政の方針決定、評価などの作業に意見を述べていました。当時の原子力安全委員長の班目春樹先生も、その前には私と一緒に技術顧問をしていました。