人生の喜びは「微分係数」で決まる! 真の教養人になる条件とは?

豊臣秀吉の生きざまを微積分で語る

つゆとおち つゆときえにし わがみかな
なにわのことも ゆめのまたゆめ

これは、豊臣秀吉(1536-1598)の辞世の歌です。

戦国時代に足軽の子として生まれながら、異才と努力によってはい上がり、乱世を戦い抜いて、ついには全国統一の大業を成就したほどの人物であっても、死を目の前にすると、すべての業績が「ゆめのまたゆめ」になってしまうものなのでしょうか。

豊臣秀吉

墨俣(すのまた、岐阜県大垣市)の築城に並外れた才能を発揮したり、明智光秀を討って主君・信長の仇を取るとともに、信長の後継者としての足場を固めたり、ついに全国統一をし、大坂に城を築いて天皇を招き、その前で諸大名に服従と忠誠を誓わせたり……秀吉にしても、そうした素晴らしい登り調子の間には、天にも昇るほどの歓喜を噛みしめていたにちがいありません。

それにもかかわらず、終わってみれば、なんの感動も抱くことなく「ゆめのまたゆめ」ときたものです。

こうしてみると、人生の喜びは、どれほどの大業を達成したかではなく、その大業に一歩一歩近づいていく過程に依るように思われてなりません。

言葉を変えていうと「人生の喜びは目的関数の大きさによるものではなく、その微分係数、つまり、瞬間瞬間の達成率に依存している」のではないかとも思うのです。

 

突然、なんの断りもなしに「微分係数」などという数学用語を使ってしまい、ごめんなさい。「微分」というのは、変化の激しさを調べることです。そして、特定の場所における変化の激しさを表す値を、「微分係数」というのです。

ついでにご紹介すると、変化している値を積算する行為、および、その結果を「積分」と呼んでいます。

微分も積分も、数学のテクニックを表す用語なのですが、ときには、上の秀吉の人生を表す比喩として活用してみるのも、なかなか文学的に洒落たものです。