甲子園で人生が変わった男が、「今年の高校球児たち」に伝えたいこと

動画「炎のベースボール解説」第14回
金村 義明 プロフィール

夢の初舞台は惨敗――「負けはおまえのせいや!」

高校1年では背番号ももらえず、新チームになるときにやっと背番号10番をもらえました。2年生のときは、選抜大会ではあと一歩で甲子園に出れず、夏も県予選の決勝戦で負けです。

3年生の春にやっと、ギリギリで選抜に選ばれまして、当時、「監督を胴上げしてくれ」とか、新聞社の撮影があるんですけど、僕だけその輪に参加せずに、速攻自転車で母親に報告しに帰ったのを覚えています。

「やっと甲子園や! よし、ここで大暴れしてやろう!」と思って選抜大会に臨んだんですけど、空回りでしたね。

今まであちこちで話しましたけども、槙原くんと第一試合、甲子園周辺の阪神間の高校が一番強い、全然レベルが違うという自惚れがありましたから、「大府高校の槙原くん、どんなチームや?」と侮ってました。「知多半島の公立高校」と聞いても、知多半島の存在すら知りませんでした。

「公立高校かぁ」とか思いながら、試合が始まると、それまで見たこともない豪速球を見せられてしまい、槙原に負けじと力任せに投げたら、その公立高校の打線に5点とられました。1回戦敗退。号泣です。

OBやら監督からは、「おまえの一人相撲で負けた。報徳始まって以来の甲子園1回戦負けはおまえのせいや」と言われました。

 

そして、最後の夏、そんな思いして報徳に行ったんで、負けたら終わりなんで、県予選の一回戦の無名の公立高校とあたるときでも、「僕が投げます」と志願して、予選7試合全イニング投げました。

甲子園では、当時、1回戦勝ったら、次の2回戦、3回戦はくじで対戦相手が決まっていくんです。2回戦は前年度優勝校の横浜、3回戦は準優勝校の早実(エースは荒木大輔)と名だたる強豪とあたるんで(準々決勝は、南海で活躍した藤本修二がエースの今治西、準決勝はかの工藤公康を擁する名古屋電気〈現愛工大名電〉)、必死になって投げた結果が優勝でした。

高野連からは、「ガッツポーズはするな」とお叱りを受けたんですけど、死ぬほどしてやりました。それが僕の甲子園のすべてです。

みんな甲子園は聖地だとか、甲子園は憧れだとか言うけど、僕の場合は人生そのものでした。そこで優勝できたおかげで、次の日から人生が変わったというか、周りが変わった。親戚や友だちがびっくりするくらい増えた。こんなに周りが変わるのかと呆然としました。

今、冷静に振り返ってみると、そこで僕の野球人生は、ある意味半分くらい終わっていたのかなと思います。プロ野球に入団するときの契約金が上がり、これで両親にすべて返せると喜んだんですけれども、プロ入りしてからは、その厳しさに負けてしまいましたからね。今、振り返ってみると僕のピークはそこ(甲子園優勝)だったのかなと思います。

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