掘り出された日本人の遺骨(2012年8月撮影)

戦後75年、北朝鮮に眠る「日本人遺骨27000柱」をどう考えるか

「拉致問題優先」に固執すべきではない

朝鮮人民軍基地に入る

北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の首都・平壌(ピョンヤン)市の中心部から、東南東へ約15キロメートルの寺洞(サドン)区域大院里(テウォンリ)。田園地帯の中を走っていた車は、大きなゲートの前で止められた。

車内には一気に緊張感が走り、誰もが押し黙った。これから朝鮮人民軍の基地へ入ろうとしているからだ。許可が出るかどうかは分からないと、聞かされていた。

かなり待たされ、小銃を肩に掛けた兵士がやってきた。窓越しに、外国人のパスポートや通訳らの身分証明を入念にチェックする。ようやくゲートが上げられ、車は動き出したが、もちろん、こうした様子を撮影することなど出来ない。木々の間を少し走ると開けた場所に着き、車から降りた。

人民軍基地内の住宅や農地(2012年9月撮影)
 

ここは日本による植民地支配時には「三合里」と呼ばれ、日本軍の広大な野営演習場があった。

日本の敗戦後、北緯38度線より北側を支配したソ連軍は、この場所を捕虜収容所にし、約7500人の日本軍兵士を収容。そのために日本軍が建てていた十数棟の仮兵舎が使われ、同じ演習場の一角には将校用の「美勒洞収容所」が設けられた。ソ連軍撤収後は、人民軍が使用している。

「社会科学院歴史研究所」の曺喜勝(チョ・ヒソン)所長の後について、小高い山を上る。ここからは撮影可能だと告げられる。細い道の両側には軍関係者の家族が暮らす住宅が並び、その庭は例外なく畑になっている。所長はこれから、その中の2軒の家の間にある畑を掘ると言う。

すると、露骨に不満そうな表情をしたその家の住民たちが、トウガラシなどの野菜を次々と引き抜く。兵士らしき若者が中心になって掘り始める。するとすぐに、土とまったく同じ色の小さな塊が次々と出てきた。これは、ここの捕虜収容所で死亡した日本軍兵士の遺骨なのだ。

「三合里収容所」跡での遺骨発掘作業(2012年9月撮影)

収容所で捕虜たちは、栄養失調と伝染病の感染によって次々と死亡した。1日に72人も埋葬されたことがあるという。土地が凍結して墓穴を掘ることが出来なくなった10月末からは、遺体はテントの中に春まで仮置きされた。

「三合里捕虜収容所」とその近くの「秋乙病院・収容所」での日本軍将兵の死亡者は1600人以上になる。ソ連軍は、収容者を帰国させる際に死亡者名簿を持ち出すことを禁止したが、880人の氏名が判明している。

北朝鮮の大地には今も、終戦時の混乱の中で死亡した日本人の遺骨が眠っている。一方の日本では、戦争中に死亡した朝鮮半島北側からの朝鮮人兵士・労働者の遺骨が遺族に渡されずにいる。

終戦から75年、「国策」に翻弄された二つの国の遺骨取材を通して、日朝関係のこれからを考える――。