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下腹部を切断し冷蔵庫へ…日本の「局部切り取り事件」の歴史が猟奇的すぎた

「阿部定事件」だけじゃない

「昭和11年の三大事件」――。1936(昭和11)年、3つの事件が帝都・東京を大パニックに陥れた。

2月6日に発生した「二・二六事件」、7月25日に発生した上野動物園クロヒョウ脱走事件」、そして5月18日に発生した「阿部定事件」である。

特に阿部定事件は、令和の現在に至るまで「伝説的な毒婦」「戦前を代表する猟奇事件」といったキャッチと共に数多くの書籍が出版されてきた。果たして「阿部定事件」とは何だったのか、そして、この事件が後年の同様の事件に与えた影響について改めて考えてみたい。

阿部定についてはこれまでも様々な書籍が刊行されている
 

血文字の定

5月18日の午後3時ごろ、東京都荒川区の待合(男性が芸者と飲食や性交などを行う場所)で男性の死体が発見された。死んでいたのは、中野区で料理店を営む石田吉蔵(きちぞう・42歳)。

彼は紐のようなもので首を絞められていたほか、鋭い刃物で体を傷つけられていた。

死体の下に敷かれた敷布(シーツ)には吉蔵の血で書かれたと思われる「定吉二人キリ」という文字、左腕には「定」という刃物で刻まれた傷跡があった。

そして何よりこの事件を特徴づけていたのは、吉蔵の遺体の陰茎や陰嚢が奇麗にスッパリと切り取られていたことだった。

警察の到着後、犯人は待合の責任者の証言および残された「定」の文字から、この店で働く女中の阿部定(さだ・31歳)であることを突き止めた。

翌19日には朝日新聞、読売新聞といった大手新聞社が大々的に事件を報道。そこには阿部定の20代の頃と思われる写真に詳しいプロフィールが記載され、「血文字の定」という渾名(あだな)も付けられていた(有名な話ではあるが、男性の陰茎のことを「下腹部」と呼称するようになったのは、この阿部定事件がきっかけである。下腹部という言葉が使われる前は「チン切り」よりも吉蔵の腕につけた「血文字」がクローズアップされたのである)。