『ヨシアキは戦争で生まれ戦争で死んだ』(講談社)

米兵との混血孤児として生まれ、ベトナム戦争で散る…青年ヨシアキが示した戦争の悲哀

凄まじい反響だった「サンダース・ホームの1600人」

「混血孤児たちの母」と呼ばれた澤田美喜さんが亡くなってから40年が過ぎた。戦後混乱期の1948年に児童養護施設「エリザベス・サンダース・ホーム」(神奈川県大磯町)を設立した人である。

この施設に入所した子供は進駐軍兵士と日本人女性の間に生まれた孤児。兵士による性暴力によって生まれたり、兵士が父親の責任を取らなかったりした子供たちである。

クリスチャンだった美喜さんは、この子供たちを育てるのが自分の使命と考え、困っている女性から無条件で預かった。その数、約2000人。小中学校も併設し、18歳まで育て上げ、社会へ送り出した。

写真:澤田美喜記念館HPより
 

美喜さんのホームを広く世に知らしめたのは日本テレビの歴史的ドキュメンタリーだ。1978年7月、ゴールデンタイムで2時間にわたって放送された『子供たちは七つの海を越えた~サンダース・ホームの1600人』である。凄まじいと言っても過言ではない大きな反響を呼び、この年の芸術祭大賞も受賞した。

どんな番組だったかというと、放送時点で施設から旅立っていた1600人のその後を追った。養子縁組や移民などで海外に渡っていた出身者も追跡調査。そのうち米国にいた20数人はニューヨークの国連本部前に集まり、日本の美喜さんと衛星中継で対面。出身者たちが次々と「ママちゃま(美喜さんの通称)」と語り掛けると、美喜さんは感極まった。

もっとも、その場にいるはずの1人の男性の姿がなかった。後田義明さんだ。母親が不良米兵に乱暴されて1947年に生まれ、51年からホームで暮らし、58年に渡米していた。

義明さんの母親は当初、自分1人で子供を育てるつもりだったが、生活が困窮。なにより、差別や偏見のあった混血児を独力で育てる自信がなかった。このため、義明さんが4歳のとき、美喜さんのホームに預ける。その後、母子が再会することは二度となかった。

それでも義明さんは美喜さんから精いっぱいの愛情を注がれた。11歳のとき、米国サウスカロライナ州コロンビアの家に養子に入り、名前はスティーブ・ヨシアキ・フラハティに変わったが、やはり大切に育てられた。