事故機のJA8119(1984年撮影)〔PHOTO〕Wikipedia

「日航機墜落事故」から35年…震えが止まらなかった現場取材の記憶

犠牲となった方々の冥福を祈りつつ

今年もまた8月12日が巡ってきた――。

35年前の今日、群馬と長野の県境近くの御巣鷹山に、東京・羽田発大阪・伊丹行きの日本航空123便が墜落した。乗員乗客524人のうち520人が死亡、日本の航空機事故史上最悪の墜落事故となった。

筆者は当時、毎日新聞社長野支局で記者をしており、この空前絶後の航空機事故を現場で取材した経験がある。そしてこの事故取材は、28年間の記者人生における原点ともなった。御巣鷹山の「スゲノ沢」と呼ばれる墜落現場は筆者にとっての「グランド・ゼロ」なのだ。

〔PHOTO〕gettyimages

まず向かったのは南佐久郡南相木村

1985年(昭和60年)8月12日、長野市内はとても暑かった。筆者は、前年の1984年4月に毎日新聞社に入社、長野支局に配属され、長野県警を担当して2年目を迎えたばかりの駆け出し記者だった。その日は夕方から長野駅に近い映画館で映画観賞中だった。

当時は携帯電話がまだ普及しておらず、ポケットベルの時代であった。そのため、どこで何をしていようが事件・事故があれば呼び出されるのをいいことに、夕方から映画館にしけこんでいたというのが正直なところだ。

その時、突然ポケベルが鳴った。慌てて映画館の外に出て、最寄りの公衆電話から支局に連絡を入れると、次長(デスク)の大声が耳を劈いた。

「日航機がレーダーから消えたとの情報が入った。至急支局に戻れ!」

何が起こっているのか分からないまま映画館を後にして急いで支局に戻ると、情報はもう少しだけ具体的になっていた。

「長野県東部付近で突如、日航ジャンボ機の機影がレーダーから消えた。墜落の可能性もある」

警察担当記者として長野県警に照会するも、警察も事態をまだはっきりと把握しておらず、対応した広報官は「我々もとにかく現場に近い南相木村に向かうところだ」という。

支局長の指示のもと、筆者も自家用車を運転して、とにもかくにも南佐久郡南相木村を目指すことにした。

12日深夜、南相木村役場に到着。役場の会議室に臨時電話を設置する準備をしていると、懇意にしていた長野県警の捜査官が「どうやらあっちらしい」と、県境を超えた群馬県側が墜落現場とみられる、という情報を耳打ちしてくれた。

 

ならばと支局に電話で連絡をしながら再び車を運転して、13日午前零時過ぎ、群馬県上野村に毎日新聞が民家を借り上げて設置した臨時取材前線本部にたどり着いた。

そこでは東京本社や周辺の支局から駆けつけた記者とカメラマン、社有車の運転手、デスクらが集まっていて、13日早朝からの取材態勢を検討していた。