作家がコロナを語るのは無責任? 激動の時代に「物語を書く意味」とは

【特別鼎談】真藤順丈×深緑野分×小川哲
小説現代 プロフィール

小川 でも、コロナって正直、作家の生活に大きな変化はないんだと思います。そもそも僕の場合はあんまり外出しないし、自粛もステイホームも関係なく、コロナ前からの日常が続いていたんです。だから僕はなにか発言したり、書いたりするなかで、どんどんコロナに対する現実感覚が研ぎ澄まされていって、最終的には、“コロナとは何か”みたいな、スタメンストーリーみたいなのが出来上がってきました(笑)。初めは何もなかったはずなのに、次第にコロナについての言説が磨かれていく感覚ですね。

石戸 その点は小川さんの作家活動に、プラスに働いているんでしょうか。

小川 まぁ、そうですね。プラスと言えるのかはわかりません。コロナとどう関わるべきかというのは、僕が普通に小説を書いていたら、そんなこと考えなくていいことなんです。しかし、聞かれるたび考えなければならず、そういう意味では良かったと思っています。

僕はまず、作家がコロナについて語るのは無責任だという前提から入ります。結局、飲食店とか音楽やっている人とか、何でもいいですけど、この社会で生活するほとんど全ての人は、コロナによって生活が破壊され、健康が乱されている人もたくさんいて、もちろん亡くなった方もたくさんいます。作家は、もとからステイホームしているんです。別にコロナ禍でも生活は全然変わらないんですよ。そんな立場で、コロナはこうだとか、そもそも人々に対して家にいろとか言うのは無責任です。そこは必ず言うようにしています。

石戸 イタリアの作家、パオロ・ジョルダーノのエッセイ集『コロナの時代の僕ら』とは立場が違いますね。僕はニューズウィーク日本版の書評で、かなり批判的に書きました。彼はずっとステイホームと言っています。

小川 そう。僕、読んで真っ先の印象が、そりゃあ君は作家だからステイホームでいいだろうって思ったんです。君がステイホームって言うのはちょっと無責任なんじゃないの? 生きていくために外へ出ないといけない人もいるんじゃないのと。でも、イタリアと日本だと状況が全然違って、作家でもステイホームと言わなきゃいけないような状況にあるということなんだろうと思い直しました。日本人はわりとステイホームしているんで、僕がステイホームと言う必要もないだろうということですね。

現代の作家に求められる「メソッドの改革」

石戸 真藤さん、どうですか。作品に影響はありますか。

真藤 ちょっと今、まだ小川哲と自分のコロナ寄稿依頼の差にダメージを受けているんですが(笑)……。まあでも、自分はオピニオンを求められる存在じゃないだろう、とは思います。だけど小説についても、新型コロナで世の中が変わってしまったことはかなりシビアな悩ましい問題になっていますね。

現代小説には、比較的近年だけどすでに「歴史」となった事件や時代に参照するものと、現在進行形で起こっていることを記録するように書くものがありますが、後者の場合はこれだけのことになってしまうと、小説の書き方においてもパラダイムシフトが起こりますよね。街には人がいなくなって、会話はすべてリモートで、ってそんな社会を反映して面白い話にするのはものすごく腕が要ります。俺の場合、2020年のオリンピック前後の話を連載していたんだけど、コロナ禍になる前にスタートして、今はもう感染症のことを無視できなくなっちゃって。

自分の書くものは特に、暑苦しいというか、たえず濃厚接触をするようなところがあるから、これまでのメソッドではもう書けなくなるじゃないかという恐怖すらあります。

この小説は改稿を考えているけど、オリンピックがどうなるかひとつ取っても、この国は直前まで決断できないだろうと思いますし。決断できずにずるずる「注視」しているだけでの政府では、先の見通しもまるで立たない。だから現代の作家にはメソッドの改革が、それこそSF作家でなくてもSF的な近未来への見通しが必要になってくるんじゃないかと思いますね。

 
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