まだ新自由主義に世界が襲われる前はどうだったでしょうか。先進国の主流民族の男性労働者は、重工業などの熟練の要る仕事に就いて、比較的安定した雇用と比較的高い給料をもらっていました。
それに対して、発展途上国の労働者は鉱山や農場や簡単な軽工業の仕事に就いて、先進国内の移民や少数民族の労働者はキツイ、キタナイ、キケンの3K労働に就いて、不安定な安い賃金で働いていました。
両者の仕事は全然取り替えが効かない別物だったので、移民や少数民族や発展途上国の労働者が資本側にどんなにひどく搾取されても、先進国の主流労働者は雇用が取り替えられることはなかったし、かえってそれで会社がもうかれば、自分たちの賃上げがしやすくなるので有利という側面がありました。
しかし新自由主義が世界を席巻してから、先進国の重工業などの熟練労働者は解体されていきました。自動車も電機製品も何でも、発展途上国でも作れます。移民でも教育差別された少数民族でも作れます。
そうすると、移民や少数民族や発展途上国の労働者の賃金やその他の条件が、先進国の熟練労働者よりも低かったならば、企業が工場をたたんで発展途上国に出ていったり、移民や少数民族の非正規の労働者に雇用が取り替えられたりします。
つまり、先進国の主流民族の労働者と、移民や少数民族や発展途上国の労働者は、直接の競合関係に入ることになったわけです。
だからこそ、新自由主義のせいで生きづらさや不安にかられる大衆の多くが、右派ポピュリズムに飛びついたのですね。
以前は、先進国の主流派労働者の階層エゴにとっては、外国人労働者は「二級市民」のような地位に甘んじる限りはいてくれないと困る存在でしたが、もはやそうではない。「出て行け」ということになったわけです。
これは、生きづらさや不安にかられる大衆にとっては、自分の生活がかかった深刻な問題です。これに対して、「差別はいけません」と天下りの人権論でお説教しても心に響かないでしょう。
従来のリベラル派の側からのその手のお説教は、今なお取り替えに脅かされずにすんでいるエリート的労働者の、恵まれた立場からのキレイゴトに聞こえるのだと思います。
しかしこのことは、今世界の労働者を苦しめている足の引っ張り合いを抜本的に解決するには、自分よりも低い境遇の労働者を引き上げるしかないことを意味しています。
発展途上国の労働者の賃金が上がれば、企業が海外移転することもなくなり、先進国の労働者は雇用が守られます。移民や少数民族の賃金も、先進国主流民族の労働者と同じレベルに上がれば、雇用が取り替えられることはなくなります。
昔みたいに、他人の境遇が悪い方が自分にとって利益というのとは、正反対になったのです。労働者の利害が、国や民族や階層を超えて一致するようになったということです。
先進国の主流民族の労働者が、移民や少数民族や発展途上国の労働者の境遇改善のための闘いを応援することが、キレイゴトではなく、身に迫った生活上の利益になっていることがわかります。
そうすると、右派ポピュリズムに煽られて民族対立をすると、支配エリートにとっては、労働者の民族を超えた団結を分断で防ぐことができ、労働者どうしの足の引っ張り合いで賃金の抑制も労働強化もできて、笑いが止まらないということになります。
それゆえ、新自由主義のもたらした悲惨を真に解決することは、移民や少数民族や外国人の一般大衆を敵認定する右派ポピュリズムにはできない。民族が違っても「われら」の仲間とみなす左派ポピュリズムにこそそれができるということがわかります。