誰よりも懸命に神さまに祈りを捧げ、「幸せになるため」に信仰に身を委ねた祖母の最期は、控えめに言っても悲惨だった。自らの意思では体を動かすことができず、家族の誰とも言葉を交わすことすらできない。床ずれによって腐敗した体からは異臭が漂い、思わず顔を背けたくなるほどだった。

そうやって、死んでいった祖母。ぼくは彼女の最期を「幸せなものだった」とは思えなかった。それでも、家族が集まり、みんなに見守られるなかで死を迎えられたのは、寂しいものではなかっただろう。

宗教三世のライター・五十嵐大さんの連載「祖母の宗教とぼく」。五十嵐さんの祖母はある宗教の熱心な信者となった。そして、孫である五十嵐さんや家族たちもその宗教に従って生きることを強く求められていた。それにより、五十嵐さんも家族も、友人を失ったり、行動を制限されたりするようになっていった。

「信教の自由」は憲法でも保障されているし、宗教を信じることで救いがあることは素晴らしいことだ。しかし、それは「個人の選択」によるものではないのだろうか。連載最終回では、五十嵐さんが振り返る「信教の自由とは何か」を考察する。
祖母の宗教とぼく」今までの記事はこちら

宗教団体の墓地で感じた、
やり場のない怒り

葬儀と火葬が済み、祖母の遺骨は宗教団体が運営する墓地に納骨されることになった。その墓地は高台に位置し、空気が澄んでいる気がする。キレイに整地され、居心地は悪くない。

ただし、お墓参りをしている人たちの横を通り過ぎると、祈りの言葉がぶつぶつと聞こえてくる。その頃、すっかり宗教に対し不信感を抱いていたぼくにとって、その呟きはとても煩わしいものでしかなかった。

Photo by iStock

そんな祈りで、誰が幸せになるんだよ。

故人を悼むように手を合わせている人たちを見ては、ぼくは心のなかで毒づいた。やり場のない怒りを他者にぶつけたって仕方がない。頭ではそうわかっていたものの、どうしても胸の内が黒く染まっていく。

これまで祖母の言葉を信じ、神さまに祈りを捧げては、裏切られ続けてきた過去がリフレインする。友達を失い、夢に敗れ、奇異の眼差しを向けられる日々。一つひとつの傷跡が、ぼくのなかにあった信仰心を否定する材料になっていった。

ぼくはもう、神さまなんて信じない。信じられない。
――早く終わらせて、帰ろうよ。

ぼくは隣を歩く母にそう言って、この奇妙な場所から抜け出したいと思っていた。