「ウィズコロナ」「新しい日常」の大いなる欺瞞…戦争のときにそっくりだ

「日本人論的不安」を考える
船曳 建夫 プロフィール

「争う」中の大局観として、「負ける」も選択肢にあることは、戦争の常である。兵隊は前線で銃弾を撃ち続けるとき、それは自国の家族を守るためだ、と思いながらやっている。しかし、のちになって大局から見れば、実は撃つのを止めて自分だけ白い布を振って降参すればその戦線は崩れ、苦楽を共にした戦友は殺されるかもしれないが、戦局に影響を与え戦争全体の終結は早まったかもしれない。

たとえばこの前の大戦が一日早く終われば、1945年8月15日未明の埼玉県熊谷市の空襲による二百数十人の死者、1万5000の戦災者はなかったことになる。

で、何なんだ、このたとえ話は、と聞かれたら、こう言わなければならない。おそらく国家予算によるコロナ重症患者への治療は、物理的に設備と人員が足りなくなればどこかで早めにあきらめることになるのかも知れない。前線の兵士(医療従事者)による現場の「トリアージ」でなく、戦い全体が「政治的判断」による「ガイドライン」で「転進」を命じられるかも知れない。もう国の方針として、重症者の治療はあきらめます、と(「転進」は日本帝国大本営の「退却」の言い換え)。

現場からも医師たちが、「戦えません」と言い出すことはないのか、と考えたりする。すなわち、現場が持ちこたえれば持ちこたえるほど(撃ち続ければ撃ち続けるほど)政府は耳に心地よい「感染防止と経済再生の両輪」などと言い続け、聞く方もかけ声に踊って、それがかえって感染拡大の大破綻を招くことを私は憂いている。「もうやれないんだ」、と前線が言い出す必要がある

〔PHOTO〕iStock
 

日本の調子がいいと不安になる

僕は『「日本人論」再考』という本を書いたことがあるが、その本の中に今回のコロナウィルスの問題に関わる発見があった。日本人は、西洋との比較で、日本が調子の悪いときに不安になって「日本人がダメなのはなぜだろう」、と「日本人」を論じたくなる。それは分かりやすい。しかし実は、調子がよいときにも不安になって「どうして日本人なのによいのだろう」と原因究明をしたくなるのだ。