「ウィズコロナ」「新しい日常」の大いなる欺瞞…戦争のときにそっくりだ

「日本人論的不安」を考える
船曳 建夫 プロフィール

「ウィズ結核社会」とは言わない

そのうち「常在戦場」なんて言い出すか、と思っていたら、「ウィズコロナ社会」という珍妙な言葉が世界中の物書きから出てきた。その言葉と考え方がなんとなく「がんと共に生きる」とか、「弱者との共生」とか、だいたいそのあたりの標語と同じような「よいこと」だ、と思ってマスコミなどは使っているらしい。

ある文化人類学者が、元々人間というものは、ウィルスと共に生きて来たのだ、と分かった風のことを書く。地球上のそこら中にウィルスがいるなんてことは中学校の生物の授業で分かっている。

〔PHOTO〕iStock
 

その「ウィズウィルス」についていま書いたら誰だって「ウィズコロナ」と誤読する。しかし、「ウィズ」、「と共に(生きる)」ということばの含意する積極的な意味はどこにあるというのか?

確かに長い間社会は「結核」と共にあった。僕は、小学校でツベルクリンを、そのあと陰性だと痛いBCG注射をされていた世代だ。周りに、結核になって大学を棒に振った人がまだちらほらいた時代だ。でも「ウィズ結核社会」なんてことは言わなかったし、言ったらおかしい。結核は撲滅すべきモノだ、と皆分かっていた。

コロナウィルスも無くすか弱体化させるか(または勝手にそうなる?)、ワクチンなどで免疫力を付けるか、要は人がコロナウィルスによって重症化して死なないようにするしか取るべき方向はない。また別の生物学者が「人類よ、むやみにコロナと争うな」と書いたりしている。どういう意味かわからない。「むやみに」? 適度の嘘はエッセイの味付けになるが、これは無用の誤解を招く危険が大きい。いま僕らは「コロナと争う」しかない。