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「ウィズコロナ」「新しい日常」の大いなる欺瞞…戦争のときにそっくりだ

「日本人論的不安」を考える

「新しい日常」への違和感

202X年のある日、「あの頃大変だったよな、正直ちょっとビビった。でもまぁ、どうにかなるかな、と思っていたら、ま、あの程度で済んだんでよかったなって感じ」とコロナの昔を振り返る。そう終わればいいなと多くの人が不安を抱えながら、いま考えているのではないか。この「いま」とはこれを書いている2020年7月31日。そう終わるだろうか…。

この数ヶ月、20世紀の戦争の本をいろいろと読んでいる。戦争という「非常時」が、コロナ下の現在とよく似ているのに気がつく。非常時を、何とか「新しい日常」だ、と政府が人々をなだめようとしている図式に、お定(さだ)まりの「民に不安を与えてはならない」というこの日本列島近代のやり口がよく現れている。

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淡々と変化なく、それと感じずに過ぎていくのが「日常」であって、そこに時々、お正月やお祭りなどの「非日常」、ハレの時間が現れる。だから「非日常」はあっても「新しい日常」なんてものはない。それを「作ろう」という国民運動はまやかしだ。

じっさい公文書に載ったりする「新しい日常」の中味はというと「手洗いの徹底、マスクの着用、ソーシャルディスタンス」(!)だったりしてびっくりする。それは感染予防の大事な「技法」ではあっても、決して「日常」ではない。なぜなら現在はかつての日常とは隔たり、大きな危機に晒されているのだから。

空襲警報が鳴ると作らされた防空頭巾(手作りマスク?)をかぶって防空壕に入る。それは戦時中の「技法」であって、そんなことしないで済む平和が来てほしい、と皆は願っていたのだ。繰り返すが、日常でないものを「日常」と名指すのはまやかしである。

行政は言うことを聞いてほしいから「新しい日常」なんて言葉を持ち出してきて、それにすべての新聞が提灯持ちをしているのも、1940年代の戦時中と一緒である。新聞屋さん、戦争終わってから「反省」しても遅いよ。