日本初の本格的な政党内閣を組織した原敬(photo by gettyimages)

原敬は「泥臭い利益誘導政治家」ではなかった!ハイカラな素顔とは?

近代最高の政治リーダーへの誤解を解く
日本で初めて本格的な政党内閣を組織した首相として知られる原敬。鉄道や道路の建設を積極的に推進し、保守的で泥臭い利益誘導的な政治家というイメージを持たれがちな原ですが、実はとてもハイカラな人物だったといいます。

没後100年、誤解の裏に隠された「平民宰相」の意外な素顔とは? 原を「近代最高の政治リーダー」と評価する京都大学名誉教授・伊藤之雄氏の最新刊『真実の原敬 維新を超えた宰相』(講談社現代新書)から、新しい原敬像を読み解くポイントを解説します。

「平民宰相」はオシャレだった?

原敬の名前は中学・高校の教科書のどれにも登場するので、日本の歴史に関心のある人の多くはその名を知っている。

東北出身の政治家、大正期に日本で初めて本格的な政党内閣を組織した人、爵位を持たない初めての首相であったので「平民宰相」と呼ばれたこと、東京駅で暗殺された人、といったことを思い出す人もあるだろう。

 

また、原は各地に国の費用で鉄道や道路を建設し、日本の経済発展を目指すとともに、自らの政党、立憲政友会の勢力拡大に利用した、と見る人も少なくないだろう。

すなわち、戦後の自民党につながる、保守的で権力志向が強い泥臭い政治家、というイメージである。

実際の原は相当お洒落な男であった。当時の正装のフロックコートの下に、ピンクのワイシャツを合わせて着こなし、上等のピカピカの革靴を履いた。

シルクハットにフロックコートで正装した原敬。『写真集 原敬』より

南部藩(盛岡藩)の家老格の家に生まれた原は、母の影響で、少年時代から和装の身だしなみに気を使った。

それが、29歳から33歳にかけて外交官としてフランス公使館に勤務したパリ仕込みの洋装に生かされたのだろう。

いち早く生ビールを振る舞った

また原は、政治家となって重要閣僚の内務大臣に就任し、1907年(明治40)8月に盛岡市の料亭で地元有権者を招待して園遊会を開いた際に、当時まだ珍しい生ビールでもてなしたことも面白い。

原の園遊会でビールを出すために、東京の目黒にあった東京ビール会社の社員が出張して、ビアホールを開いた。

当時は制限選挙であったので、盛岡市選挙区の有権者も少なかった。この園遊会に招かれたのは、内務官僚である岩手県知事(官選)以下、有権者数より少し多い700余名であった。

彼らの多くは、地元の商店主(呉服・小間物・米穀・生糸)や事業者(鉱山・請負・建築・製造・印刷)などで、欧米はおろか東京へすらも行く機会がほとんどない者であった。

原は参加者をもてなすため、各人に料理の折詰と瓶詰の日本酒を用意し、芸妓の踊りや煙火(はなび)の打ち上げで盛り上げた。このあたりは当時の定番である。

それに加えて生ビールというのは、大変に珍しかった。4年後(1911年)の盛岡の原邸での園遊会の様子を報じた地元新聞の記事から、参加者の様子を見てみよう。

今では乾杯の定番となったビールだが……(photo by iStock)

原のような日本の「政治界の大立物」に招かれたのだから、不作法があってはならないはずだが、模擬店が開かれると、我がちに先を争って「突撃」する者、珍しい料理をたくさん手巾に包んで持ち帰る者があり、ビールの空き瓶に日本酒を詰めてぶら下げて帰る者がいるというのはなんたることか、と記者は嘆く。原の園遊会の参加者は、ビールより日本酒のほうが嬉しかったのである。

日本でビールを飲む習慣は1930年代に入ってから大都市の学歴の高い中産階級以上の人々を中心に、ようやく広がり、地方の中小都市でも、都会のモダンな飲み物として、カフェーなどで提供されるようになる。

原は、日本の都市部でビールが普及する20年以上前から、盛岡市の人々に生ビールを出したのである。盛岡市の人々が生ビールを通じて西欧を味わい、世界に目を向ける一助にしたいと、原は考えたのだろう。