20代で戦争を迎え、戦闘の中心にならざるを得なかった「戦中派」の想いは複雑になる… Photo by GettyImages

単純に戦争を否定できなかった…映画に残された「戦中派」の真意

戦後映画史(3)私は貝になりたい

戦後75年となる2020年。戦争を知らない人たちが増えるからこそ、伝え続けなければならない実態を、ジャーナリストの佐々木俊尚さんが映画から切り取る連載「戦後映画史」。最終回の今回は、戦争中に20代で戦地へと駆り出された「戦中派」の人たちが抱えてきたものを考察する。

 

20代で戦争を経験した人たち


1954年の映画『ゴジラ』で、世界を救った芹沢大助博士。狷介で孤立したこの科学者は戦場で顔に大きな傷を負い、右目を失って生還したと設定されている。演じた平田昭彦は1927年(昭和2)生まれだが、芹沢博士は戦争経験を考慮すればさらに年上で、おそらくは大正生まれだろう。

大正天皇は47歳で崩御し、大正時代は1912年から1926年までわずか15年しか続かなかった。この大正時代の前後に生まれた人たちは、のちに「戦中派」と呼ばれるようになる。20代でアジア太平洋戦争を経験し、従軍して最前線で戦った人たちが多かったからだ。

1941年 Photo by GettyImages

2020年の現在、すでに多くが鬼籍に入りつつある戦中派の人たち。彼らの存在は、日本の戦後において非常に重要な意味をもっている。それを1950年代の戦争映画からたどり直してみたい。

終戦後、米進駐軍は「軍国主義を鼓吹するもの」など13項目の映画製作禁止条項を示し、占領時には日本では戦争映画はほとんど作られなかった。1947年の『戦争と平和』と1950年の『暁の脱走』ぐらいである。1952年のサンフランシスコ講和条約で独立を回復すると、一気に多くの戦争映画が制作されるようになる。そして1950年代の戦争映画を担ったのが、まさに大正生まれの戦中派の人々だった。

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