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私利私欲を度外視した公共的理性が、唯一無二の生命を犠牲にする

反緊縮左派が試されるとき(1)
れいわ新選組の基本哲学ともいえる「人は生きているだけで価値がある」という訴え。これには、お金を稼げない人を責める「自己責任論」への批判だけにとどまらないからこそ、多くの共感を生んでいると経済学者・松尾匡氏は分析します。来たるべき「レフト3.0」の思想を説く連載の1回目では、一人ひとりの人間の価値と尊厳を守り抜く方法を考えます。

「人は生きているだけで価値がある」

「人は生きているだけで価値がある。」というのは、言わずと知れた、れいわ新選組の基本哲学みたいなものですよね。私としては一言もこれについて山本太郎さんに話した心当たりはないのですが、私の基本哲学と同じだなと勝手に感じ入っています。

『「はだかの王様」の経済学』(2008年、東洋経済新報社)とか、『自由のジレンマを解く』(2016年、PHP研究所)とか、もっと学術的なものでは『近代の復権』(2001年、晃洋書房)などで論じました。

私なりに解釈した「疎外論」の主張です。読んでくれているのかなという気もしないではないですが、たぶんそうではなくて、太郎さん自身の直感に根ざして自分の頭で考えているのだろうと思います。

 

このことがどう重要なのか。この話が出る文脈って、たいていは、おカネを膨らませるためにどれだけ役立つかで人間を評価する風潮への批判ですよね。

しかし「人は生きているだけで価値がある」という訴えの射程は、それにとどまらないところがあるからたくさんの共感を生んだのだと思います。

闘えない人にはハグを

だって、既存の社会の仕組みの中で置かれた境遇のせいで、がんばりようにもがんばれないでいる人が生じるのは、別におカネもうけについてだけではありませんから。生きているだけで手一杯で、政治的なことを考える余裕のない人もたくさんいらっしゃるのです。

そうしたら、そんな人たちに対して、自分と同じようにたっぷり時間をかけて本を読んだりネットで情報を集めたりしてこそ一人前というような態度で、「自分の頭で考える自立した市民になれ」とか上から目線で説教して、そのあげく思い通りの選挙結果にならなかったら「悪政を選んだのは自己責任だ」とか「民度が低い」とか言って悪態をつくのも、もう立派な悪しき「自己責任論」だと言えるでしょう。

選挙のことだけではないですよ。デモに出ることも、労働運動を闘うことも、抗議に行くことも。勇気を出して闘える人はスゴい。かっこいい。尊敬するべきだと思います。

でもそんな強さのない人、余裕のない人、闘うことに気づく機会がない人、守るべきものを背負ってしまっている人もたくさんいらっしゃるのです。そんなことで闘えない人たちを闘えた人と比べて一格劣った人とみなしてはいけません。

誰もが同じように政治参加できるわけではない(photo by gettyimages)

闘う人にはサムズアップを。その一方で、闘えない人にはハグを。あるいは一緒に涙を流すのでもいい。それはサムズアップと方向性は違うかもしれませんが、同格の価値を持った認め方だと思います。

そうせずに、不遇な状況におかれているのは「闘わない自己責任だ」とするのは、「おカネがかせげない自己責任だ」とするのと同様、当人にとっては立派な抑圧なのだと思います。

この世の中は、おカネをかせげないのは自己責任だという自己責任論と同じぐらいこの手の自己責任論が満ち溢れていて、やっぱり、生きるだけで手いっぱいの人々につらい思いをさせてきたのだと思います。

左派とかリベラル派とか言われる人たちの中に、みんなとは言いませんが、そんな態度の人がわりと多かったのは否定できないんじゃないかと思いますね。

だからこそ、「人は生きているだけで価値がある」という訴えは、これまで左派やリベラル派の声がなかなか届かなかった層にも共感を呼んだのだと思います。