バイ・シャーブフル遺跡背面のタンゲ・チョウガーンの谷からの景色(筆者撮影)

ペルシアの思い出ーバイ・シャーブフルの遺跡の郷愁

ペルシア研究者の回想
ハカーマニシュ朝(アケメネス朝)とサーサーン朝という、2つの大帝国を世界史上に生み出したペルシア。
そんなペルシアに魅せられた、講談社現代新書の近刊『ペルシア帝国』著者の青木健氏による特別エッセイです。
 

「ペルシア」との出会い

筆者は、今でこそペルシアの思想や文化の研究者ということになっているが、「ペルシア」なる名称との出会いは比較的遅かった

少なくとも、幼少年期から「是が非でもペルシア研究者になりたい」などと念じて生きてきたわけではない。そもそもそんな地名を知らなかったし、そこまで自分の可能性を狭めて将来を考えている小中学生がいたら、末枯(すが)れ過ぎだろう。

記憶を辿れば、地方の公立高校の2年生だった1989年の5月頃、世界史の教科書で「パルティアとササン朝」との単元に行き当たったのが、「ペルシア」との最初の出会いだったように思う。筆者はこの名称に魅力を覚え、熱心に予習し、ノートにサーサーン朝版図の地図まで描いて授業に臨んだものである(このせいか、今でも著書に版図の地図を描くのが好きである)。

しかし、世界史のY先生はまったくの不注意からこの単元を丸々飛ばしてしまい、結局、筆者は何一つ勉強しないまま「パルティアとササン朝」の前を素通りした。後年、この時代と地域の思想研究を専門にすることを思えば、恐ろしいほど淡白な擦れ違いだった。

ササン朝第二代皇帝・シャーブフル1世のレリーフ(photo by iStock)

翻って考えれば、昭和から平成に移り変わる頃の世界史教育において、「パルティアとササン朝」の持つ重要性は、世界史教師にすら閑却される程度でしかなかった

本稿執筆に当たり、念の為に当時のクラスメートにこの事実を確認してみたのだが、そんな事実もこの世界史教師の存在も――それどころか世界史を習ったことさえ――綺麗さっぱり忘却しており、話が噛み合わないこと甚だしかった。教える方も習う方も斯くの如しでは、30年前の地方高校においては、世界史という教科自体が持つ重みが、その程度だったのかもしれない。

ペルシアの魅惑

次に筆者がペルシアと出逢ったのは、東京の大学に進学後、大学図書館で借りた書籍の中であった。その書籍とは、アンリ・コルバン著『イスラーム哲学史』(岩波書店、1974年)である。本書の中でコルバンは、文献学的研究の果てに、「イスラーム圏の思想の中でも、ペルシアの哲学は精神的に優れており、アラブの哲学は全く取るに足らぬ」との奇妙な二分法を開陳し、筆者を強烈にペルシアへとった

高校2年生の頃に淡く擦れ違ったあの「ペルシア」との再会である。今から思えば、本書の内容は、パフラヴィー王朝末期のペルシア国粋主義の充満した雰囲気の中で書かれた歴史的産物だったのだが、そんなことは当時は分からない。

同時期に手に取った井筒俊彦著『イスラーム文化』(岩波文庫、1991年)も、これまた冷艶な筆致で、ペルシアのシーア派思想とイスラーム神秘主義の精神的優位を説いて余蘊なかった。

今から考えれば、晩年の井筒のイスラーム思想史理解は大幅にイラン王立アカデミーの同僚コルバンに影響されていたわけで、この読書の結果と言えば、コルバンのイスラーム思想史理解を井筒という豪奢な反響板を通して聞いていたに過ぎない。音源が同じなのだから、同じメロディーが流れてきても当然だったのだが、これまた、筆者の認識はそこまで及んでいなかった。