ジョン・ルイス〔PHOTO〕gettyimages

45回逮捕…それでも深刻な差別をなくしたかった「伝説の政治家」の死

公民権運動からBLMへ、そして…

ジョン・ルイスが亡くなった日

2020年7月17日、公民権運動の英雄の一人で「アメリカ連邦議会の良心(Conscience of Congress)」と讃えられたジョン・ルイスが膵臓がんで亡くなった。享年80歳。ルイスは、アトランタで有名な南部ジョージア州第5選挙区選出の連邦下院議員で、初当選から連続して17期、33年の間、議員を務めた。

こうさらっと書いただけでは、ルイスは1940年生まれだから46歳で当選したのか、くらいにしか思われないかもしれない。だが、連邦下院議員のような公職に黒人が選出されること自体、ルイスが関わった公民権運動なくしては不可能なことだった。1964年の公民権法に続く65年に制定された投票権法によって、黒人に加えられていた様々投票妨害行為が除かれて、初めて可能になったことだった。

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そう思うと興味深いのは、奇しくもルイスが亡くなった日に、オレゴン州ポートランドで、5月末のジョージ・フロイド事件以来続くBLM(Black Lives Matter)のラリーの現場に、DHS(Department of Homeland Security:国土安全保障省)の制圧部隊が現れたことだ。まるで「ジョン・ルイスの始めた戦いはまだまだ続く」というエンドロールを見せられたようだった。

というのも、公民権運動の活動家時代、ジョン・ルイスもまた、ラリーやマーチ(行進)を企画し先導しては警官隊の手によって鎮圧され、その際の暴力で大怪我を負うことを繰り返していた。なかでも、1965年3月7日に、アラバマ州セルマから州都であるモンゴメリーを目指して行った行進――「セルマ行進」と呼ばれる――では、行進の途上にあったエドマンド・ペタス橋で待ち構えていた警察と州兵の一団の制圧にあい、ルイス自身、頭部を殴打され昏倒してしまった。頭蓋骨にひびが入るという重傷だった。

 

このセルマ行進の惨劇は「ブラッディ・サンデー(血の日曜日)」と呼ばれ、警官や州兵によって無抵抗のルイスたち――ルイスは「非暴力(non-violence)」を掲げるSNCC(Student Nonviolence Coordinating Committee)というグループのリーダーだった――が一方的に殴打され地面に叩きつけられる様子は、当時の新メディアであったテレビニュースで全米に伝えられ、視聴者に、この惨劇がアメリカ国内で起こっていることで衝撃を与えた。

だが、その衝撃は、結果的にルイスに大きな勝利をもたらした。血の日曜日事件のあった8日後の1965年3月15日、リンドン・B・ジョンソン大統領(LBJ)は、前年の1964年に成立させた公民権法に続いて投票権法を議会に提出した。南部の黒人有権者に対して行われたきた様々な妨害行為や障壁を排除し、黒人にも「一人一票」を実現させる法案であり、この投票権法の成立こそ、ルイスがずっと求めていたものだった。セルマ行進自体、この法律の成立を求めて企画されたものだった。セルマが選ばれたのは、その地で投票の登録を求めていた男性が殺される、という事件が生じていたからだ。

もともとLBJは、公民権法の成立の直後に投票権法まで導入するのは政治的に困難と見ており、そのことは、ルイスやセルマ行進を企画したマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師にも伝えられていた。だが、血の日曜日事件が全米にもたらした戦慄によって一気に投票権法への関心が高まり、その勢いにのり、1965年8月、投票権法は成立した。

こうして黒人を筆頭にマイノリティが公選職に就く基盤がようやく作られた。ルイスの大勝利だが、この法律の成立によって、その後のアメリカの政治は大きく様変わりする。端的に、今日のアメリカ政治の勢力配置を生み出した原点が、この投票権法だった。その意味で、ジョン・ルイスは21世紀のアメリカを生み出した人物だった。だからこそ、彼は公民権運動を生きた「伝説(レジェンド)」として、党派を超えて尊敬の念を向けられてきた。

ルイスの活動家時代の逮捕歴は実に45回にも及んだのだという。だが、逮捕され収監されることにむしろ「自由」を感じていたような真性の活動家だった。当初は牧師志望だったということからもわかるように、ルイスは正義の人だった。火中の栗を拾い続けて60年。義を見てせざるは勇なきなり、を地で行く人だったのだ。