19人を殺害する前に植松聖は「宇宙から来た」と言った…一体なぜか

相模原障害者殺傷事件が僕たちに突きつけたもの【第6回】
森 達也 プロフィール

現実を疑わない社会に怒っていた

「あの本を書きながら、自分はとても怒っていた。本当に怒っていた。宮崎に対してじゃないよ。裁判所と社会とメディア。宮崎は4人の幼女を殺害したことや匿名の犯行告白文を被害者の母親に送ったことを、一度も否定していない。つまり事実関係には争う余地はほとんどない。だから僕の関心は、なぜ彼のような人間が生まれたのか、その一点だけだった。人間って結局は器だと思うんだ。そこに盛りつける何かによって、人は人になっていく、というのが僕の基本的認識。だから宮崎という器について、それは手首の障害とか祖父への過剰すぎる愛着とかいろいろあったけれど、それをまずは地元に行って徹底して調べて、次にその器に盛られたものを取材したのだけど、やっぱり時代性をものすごく感じるわけ」

「えーと、つまり80年代」

「そう。この国の80年代。それは僕たちにもどこか共通している。だからやっぱり、時代と社会が宮崎をつくった、というのが僕の理解。つまり僕や森さんだって加害者になっていたかもしれない。事件があるたびに僕はそう考える。でも多くの凶悪犯罪報道において、これを発信する記者やディレクターたちは、ひょっとしたら自分も加害者になっていたかもしれない、ということを考えない。多くの人は自分が被害者になるかもしれない、ということばかり考えている。でも僕は、事件現場に立つとき、自分が被害者になる可能性よりも、加害者になる可能性のほうが絶対に大きいと思っている。だって時代と社会は、僕と加害者とのあいだで共有されているのだから。

ならばなぜ、あの本を書きながら僕は怒っていたのか。精神鑑定書が果たしている役割は、『性格の偏りはあったけれど、理非弁別をする能力は失われておらず、従って責任能力もあった』として、極刑を科すことです。つまり、普通人であった、と。

ではなぜ普通人があれほどの凶悪事件を起こしたのか、という問いに、鑑定書は答えていない。答える気が最初からない。悪いやつが悪いことをやった。それは同義反復だよ。こうして彼や彼女を世の中から切り離して処刑して、世の中の側はいっさい免責される、というわけ。世はなべてこともなし、めでたしめでたし……ハイ、おしまい。

……何ていうかな、こうした現実を疑わない社会に、僕は怒っていたと思う」

「そうした状況を醸成しているのはメディアですよね」

「もちろん。なぜこんな犯罪を彼らは起こしたのか、なぜこんな集団が生まれたのか、というところに僕たちは、……それは森さんの『A』や『A2』、あと書籍なら『A3』も同じだと思うけれど、関心があるわけだよね。それを解明したいと思うわけ。ところが、マスコミの多くは、特に宮崎以降だと思うけれど、被害者の悲しみとか喪失感とか、あるいは被害者遺族が抱く加害者への怒りとか憎しみとか、そちらのほうに急激にシフトしていった。だから加害者への取材が薄くなる」

 

そこまで言ってから、吉岡はしばらく、次の言葉を探すように沈黙する。僕も考える。自分のこれまでを。そして現在を。

かつて僕はテレビ・ディレクターだった。1995年にオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きてメディアはオウム報道一色となり、仕方なく僕は、興味がほとんどないオウムの取材を始め、施設に残る現役信者たちのドキュメンタリーを撮ることを思いついた。

でもプロデューサーから「信者を撮るなら同じ分量だけ(地下達サリン事件の)遺族を撮れ」と指示されたことがきっかけで、僕と作品はテレビから排除される。

ただしテレビから自分自身が排除される過程で、僕は吉岡ほどに問題意識を持っていなかった。遺族については他の番組でもさんざんとりあげられていると思っていたことに加え、所属していた番組制作会社の制作部長の言いかたがいかにも「加害と被害のバランスをとれ」に聞こえて(実際にそういう意図だったと思う)、そんなレベルで中和してしまったら作品自体がぼやけてしまうと直感的に思ったからだ。

この時点でテレビ・ディレクターになってから十年以上が過ぎていた。何かが飽和していたのかもしれない。制作部長の指示にどうしても応じることができなかった。

でも結果としてそんな僕の姿勢が問題になり、撮り始めたばかりのドキュメンタリーは撮影中止を言い渡され、カメラクルーを失った僕は一人で撮影を続け、途中からプロデューサーの安岡卓治が加わり、二人で撮って編集して、自主制作映画『A』は完成した。つまりなし崩し的に映画になった。その背景に強い意志や理念があったわけではない。手もとの資料(と思ったが何もなかったのかもしれない)に目を落としながら、「僕は事件後に、宮崎の地元である五日市にずっと滞在して取材していたけれど」と吉岡が静かに言った。