植松死刑囚が私に語った「自分は〈役に立つ人間〉ではありませんでした」の意味

相模原事件から4年が経った
中原 一歩 プロフィール

植松君もまた「意味」を求められた一人でした。彼が語る「意味のないいのち」という言葉は、彼のことばであると同時に、彼が「聞かされてきた言葉」、すなわち「時代のことば」だったように思えてならないのです。

大学卒業後、就職したけれど退職。その後、精神科に入院。事件当時、彼は生活保護を受けていました。彼自身の「基準」からすると、自分が「意味のない側」に極めて近いところにいたことになるのではないか。生産性や経済効率性が偏重される時代が長く続いている中、多くの人が「自分には生きる意味があるのか」という問いの呪縛に迫られています。それは私自身も例外ではないと思っています。

先日、ある高校で話をする機会がありました。私は、1977年に日航機がテロリストによってハイジャックされ、バングラデシュのダッカ空港に強制着陸させられたという「ダッカ日航機ハイジャック事件」を引いて、こう話し始めました。

「みなさん、『ひとりのいのちは地球より重い』と言いますね…」

会場には600人ほどの高校生がいましたが、ほとんど反応がありません。そもそも、この事件を知る生徒は二人だけでした。

「ひとりのいのちは地球より重い」の言葉を残した福田赳夫元首相〔PHOTO〕Gettyimages
 

この事件の際、日本政府は人質解放を優先し、身代金や海外逃亡など犯人側の要求を承諾しました。先の言葉は、当時の総理大臣だった福田赳夫氏の言葉です。

当時、私は14歳。「ひとりのいのちは地球より重い」と断言できたこの国は、とても「いい国」だと思いました。

あれから40年。今、時の首相が「ひとりのいのちは地球より重い」と言い切れるでしょうか? そして、そう言い切れるリーダーを、私たちは支持するでしょうか?

つまり、この「ひとのいのちは地球より重い」という理念は、今の日本社会には継承されていないのです。それは、なぜなのか。もはや「言わずもがな」となったからでしょうか。それとも「そんなことを言っても、実際には大切されるいのちとそうでもないいのちがある」という現実を子どもたちが知ったからでしょうか。

残念ながら私は後者だと思っています。

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