日本人はもっと自己主張していい(Photo by iStock)

自粛する日本人が、強欲の必要性を説いたマンデヴィルに学ぶべきこと

自己中、マンデヴィル、必要悪②
日本人には「自己中さ」が不足していて、なぜか政府に自己主張する時だけは、いい人になって国民の立場を離れる人が大勢いる――コロナ禍をめぐって日本国民はどう振る舞えばよいのか、京都先端科学大学講師の甲田太郎氏が、18世紀英国の思想家マンデヴィルの思想から読み解きます。

第1回:政府を甘やかさないよう、日本人はもっと「自己中」になろうよ

仲間に「自粛」を求める異様

前回は新型コロナを例に、日本のみなさんに「自己中のささやかなすすめ」を提案しました。

「自粛してほしいなら補償して!」という当然の欲望を一般国民が抑え込み、対価を求めず思いやりだけで自粛しても、政府を甘やかすだけで、国民にとっては害悪の方が大きいのです

補償もせず、強制もせず、政府が緊急事態宣言という呪文を唱えただけで、国民が個人的欲望を抑え、仲間であるはずの他の国民に対して「自粛警察」を始めるというのは異様です。

ちなみに、前回の記事に対するみなさんのコメントを見ると、「どうしても(補償なしで)自粛してほしかったら、法律で強制すべき」という私の(結論ではない)コメントを誤解し、危険視した人がいらっしゃるようです。

私は海外のロックダウンを想定し、あくまで論理的帰結を申し上げただけです。今回の話をお読み頂ければ、法律で強制するという行為が政府の選択肢の一つに過ぎず、どちらかというと愚策であることも多いとお分かり頂けることでしょう。

このたびご紹介する18世紀英国の思想家バーナード・マンデヴィルであれば、私が推奨していると一部の人に誤解された「自粛を法律で強制する」という案に対して、あわれみも含む皮肉な笑みを浮かべて、こう言ってくることでしょう。なんて下手な統治手法なのだと。

誤解を正すため、本件に関して私がマンデヴィル的見地から答えるなら、「自粛してほしいなら、国民が喜んで自粛したくなる政策を考えるのが、政治家の仕事である」、と申し上げることとしましょう。

彼の考える政治家の「巧みな管理」は、法整備だけでなく、国民の利己的情念を前提とした、様々な誘導政策が含まれているのです。

 

私悪すなわち公益

マンデヴィルの主著蜂の寓話は、痛烈な皮肉に富んだ風刺詩とその注釈から成り立っています。以下、私の言葉で簡単にまとめてみましょう。

国力に富み、学問も産業も盛んで、贅沢に暮らす者も大勢いる「蜂」の社会には、さまざまな悪徳がありました。詐欺師や博打打ち、やぶ医者や占い師のような仕事で生計を立てる者もいて、医者や弁護士もよこしまな心でいっぱいだったのです。

もちろん犯罪で裁かれる者も多くいて、悪徳はどこにでもありましたが、社会全体ではみんなが利己心を無理に抑え込まず自由に動ける、天国とも言える状態でした。ところが、この社会から善意で悪徳を一掃した結果、多くの人々が仕事を失い、贅沢がなくなったために社会全体が貧しくなり、「蜂の巣」は衰退に向かっていくのでした。『蜂の寓話』の副題の通り、「私悪すなわち公益」だったのです。

いかがでしょうか。マンデヴィルが言いたいことは、日本のみなさんが歴史の授業で習った、松平定信の寛政の改革を批判した狂歌のようなものですね。魚の住む汚れた水をきれいにしたら、きれいすぎて魚が住めなくなってしまった、というようなことです。

マンデヴィルが述べた具体例はより示唆に富んでいます。

贅沢を廃したら社会が貧しくなってしまうというのは今日の経済学的知識でも理解できますが、人々が完璧な道徳心を身に付けてしまったら警察の仕事がなくなるとか、金持ちのドラ息子が贅沢のし過ぎで破産するおかげで社会が潤うとか、なかなか同意するのに勇気が要る考察もあります。

マンデヴィルの文章は皮肉に満ちているため、彼の真意がどこにあったかは研究者の永遠のテーマですが、マンデヴィルが「必要悪」の有効性を指摘していることははっきりしています。

「悪徳」の定義は時代や環境によって変わりますが、この世の「悪徳」を一掃したところで、豊かな社会秩序が維持できるというわけではないのが、人間社会の難しいところなのです。