「生産性」と「役に立つ生」に憑かれた、私たちのグロテスクな社会について

生産性に抗するラディカルな生
木澤 佐登志 プロフィール

他にもある。彼らは本当に自由意志のもとで職業を選択し、また自由意志のもとで働いているのだろうか。明らかに適性のない職種に7つも従事し、健常者よりもはるかに苦しいであろう経験をして、たったの月収十数万円。この時点で、僕はテレビから目を背けている。

そして、さらに追い打ちをかけるように、アナウンサーはこの「物語」を「美談」に仕立て上げる。「努力し続けることがやはり大事なんですね」。

だが極めつけは、番組中に登場する理事の言葉だ。「生まれてきた以上は世の中に必要とされている人間だ」「今、命がある限り、必ず君には使命がある」「使命を見出すためにも、自分の人生を力強く歩んでいかないといけない」。

これは、いささか「普通」すぎると思えるかもしれない。だが、一見「普通」に見えるからこそ厄介なのだ。彼の言葉を仔細に検討すれば、そこで言われていることが、実は神奈川県立津久井やまゆり園にナイフを持って侵入し、入所者19人を刺殺した植松聖の主張「生産性のない人間は生きる価値がない」と意外なほど似通っていることがわかってくるだろう。

 

「使命」とは負債である

「生産性」とは何か。それは理事の言葉では「使命」と言い換えられている。人間個人には必ずその人の「使命」が与えられており、その「使命」をまっとうするために、終わりなき労働に駆り立てられる。だから、「使命」をまっとうする気のない人間は、生きる価値がないのだ。

こう解釈すると、この理事の言葉は、植松の言葉からさほどの開きを感じない。というより、ほとんど同じことを言っている。障害者を恨み施設を襲撃した植松聖と、障害者支援団体の理事が、ほとんど同じ価値に根ざした言葉を発しているという怖さ、恐ろしさ、皮肉さ、グロテスクさ。もちろん、これは僕の妄想でしかないかもしれない。そうであってほしいと思う。

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