私はなぜ「感染症」小説を書いたのか

「事実」をつくるものは何か
砂川 文次 プロフィール

白線の外は海だよ、というルールに対して、眼前に広がる下校路を海にしてしまえる力が人に宿っているのか、言葉の方に宿っているのか、あるいはその両方なのか私にはわかりませんが、この作用はとても面白いものだと考えています。

そしてその作用について未だ解き明かせずにいて、折り合いがついていないという私の実相が、これに執着させる根本であり、何かを書く原動力なのかもしれません。ここに挙げた経験や気づきみたいなものを明確に意識して『臆病な都市』を書いたのかどうか、今となっては分かりません。ですがこの作品にも、現実とルールの往還というのがあり、これは先の白線遊びの延長線にあるものなんじゃないかな、と思ったりもします。

 

「姿を変えた日常」と言葉

私が、そんな存在しない感染症に右往左往するでも立ち向かうでもなく、ただ淡々と日常を営む小説を書き上げたすぐ後に、現実の方では実際に存在する感染症が瞬く間に世界各地に拡がっていきました。

この日を境に、それまであった日常はすっかり変わってしまった、というような言葉を耳にする機会も増えました。ただその一方で「数百年に一度」、「歴史的」、「これまでにない」といったうたい文句を冠された事象が何度も私たちの前に現れては消えていったような気もします。

私は、私たちを取り巻く有象無象がそうした事象の前後で本当に変わったのかどうかを断ずることはできません。ただ、それらについて回る文言が招来する「作用」については、幼いころにやった白線遊びやごっこ遊びなどでとっくに体験をした覚えがあります。つまりは住宅街を壮大な海にも恐竜が闊歩する原生林にも変え得る力がどこかに存在している、ということです。

そうなってくると、日常は歴史的出来事を必要とせずとも、こちらの認識一つでいつでもあっけなく姿を変えたように見えるものなのかもしれません。

さて、作品の紹介をしていたつもりでしたが、どうも妙な方向に話が流れてしまいました。この『臆病な都市』にそのような何かが「ある」のか、はたまた「ない」のか私にはよくわかりませんが、一人でも多くの方に読んでいただければ幸いです。