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私はなぜ「感染症」小説を書いたのか

「事実」をつくるものは何か
今年初め、新型コロナ感染拡大前に、一編の「感染症」小説が書かれた。「実際には存在しないはずの感染症」をめぐるストーリー、しかし、それをめぐる組織や世間の描写は空恐ろしく生々しい。「ありえたかもしれない世界」に込めた真意を30代の新鋭が綴る。

存在しないはずの感染症を巡って

初めに意図していたことと全く違う方向に話が流れていってしまう、という現象は結構身近に転がっている気がします。

この『臆病な都市』という小説は、存在しない感染症を巡って個人や集団や組織があれよあれよというまに誰しもが意図していないどこか遠くに流されていく、そんな小説です。

存在しないものに振り回されるなんて、これほどばかばかしいことはありませんが、身の回りを眺めてみると意外とこの「ない」というのが至る所に身を潜めている気がします。この「ないのにあるもの」に対する私の執着が着想といえば着想なのかもしれません。

 

自衛隊の演習で考えたこと

唐突ですが、私はかつて六年ほど自衛隊にいました。色々な業務がありましたが、ここでは一つ、演習のことに触れたいと思います。

大抵の演習には敵の存在が必要になってきます。

対抗部隊(=敵)役がいれば一番ですが、そうでないこともしばしばです。そういうとき、自衛隊(に限らず他国軍も同様)で用いられるのが設想という概念です。例えば内陸部に駐屯する部隊が着上陸侵攻対処を訓練するとき、演習場のある点からある点までを線で区切って、ここから先は海になります、そしてここにこういう規模の敵がいます、と示すわけです。実在する森を海に見立て、存在しない敵をそこに打ち立てることによって、初めて部隊は演練項目=着上陸侵攻対処を行いうるわけです。

「この白い線の外は海ね!」、と子どもたちが下校中とかにやる遊びに、当人たちが「本当にそういう風に振る舞う」、という点においては似ているかもしれません。

阿呆らしいな、と内心思ってはいても仕方がありません。「海じゃないし鮫もいないよ。ただのアスファルトじゃん」、と言って白線からはみ出す子が一人でも出たら、ゲームが台無しになるのと同じで、与えられた敵を観念しない隊員がいると訓練の意味はなくなってしまいます。本当はいないのにな、とばかばかしく思いながらもそのように振る舞うことが大切なのです。

子どもの世界とは違って、大人のほうはルールに従わない者が出ると困るので、それを指導する者や別の規則なりなんなりを練り上げる入念さと悲しさが伴っていますが。