エントロピーが「時を戻す悪魔」を倒すまでの150年におよぶ戦い

とどめを刺したのは日本人研究者だった
高水 裕一 プロフィール

マクスウェルの悪魔とは、次のような思考実験です。

「マクスウェルの悪魔」とは

舞台設定

  1. 完全に密閉されている容器があります。容器の中は、温度が均一な気体で満たされています。温度は均一ですが、気体の分子はそれぞれ、さまざまな速度で動いています。
  2. 容器には仕切りがあって、AとBという2つの小部屋に分けられています。また、仕切りには開閉ができる小窓がついています。
  3. 小窓には、何か小さいやつがいます。気体の分子の動きを観察したり、小窓を自由に開閉したりできるという超能力をそなえた、いわゆる悪魔です

この悪魔が、小窓に近づいてくる分子の1つ1つの動きを見きわめて、速く動いていればAに通し、遅く動いていればBに通すように小窓を開閉したとします。たとえば、Aから速く動く分子がきたら、小窓を閉じて、Bに通さないようにします。

すると、やがてAは速く動く分子だけになり、Bは遅く動く分子だけになります。これは容器全体では、均一だった温度が高温のAと低温のBに分かれてしまったことになります。

エントロピーに注目すれば、気体のエントロピーが最初の状態よりも小さくなってしまったということです。これでは熱力学第二法則、すなわちエントロピー増大の法則に反してしまいます。

このようなことは、気体分子になんらかのエネルギーが加えられないかぎり起こるはずがありませんが、悪魔はただ小窓を開閉しただけなので、気体には何の仕事もしていません。

「そんなおかしな話があるかい?」マクスウェルはエントロピーをようやく理解しはじめた物理学者たちに悪魔を差し向けて、そう問いかけたのです。1867年のことでした。ここで問題となるのは、速度が均一だった気体分子が、まったくエネルギーがつかわれずに動きが速い分子と遅い分子に分けられてしまうことです。

したがって、容器の中でなんらかのエネルギーの出入りがあることさえ見つかれば、矛盾はなくなります。長いあいだ、物理学者たちはそれを探しつづけましたが、なかなか見つけられませんでした。

もしも悪魔を滅ぼすことができなければ、熱力学第二法則は間違っていたことになり、第二種永久機関さえも可能ということになってしまいます。そして時間に注目すれば、この旅で追求している「時間の逆戻り」が可能ということになります。そうであれば、悪魔は私たちにとって、 むしろ天使だったことになるわけですが――。

では、物理学者たちはマクスウェルの挑戦にどう応えたのでしょうか。この天才が仕掛けた罠は、見た目以上に巧妙をきわめていました。なんと、それから100年以上にもわたって、このパラドックスは打ち破られなかったのです。

悪魔を倒す強力な武器"情報"

マクスウェルには、気体分子というミクロなものの運動が、気体全体のマクロな事象をすべて説明できるのかという問題意識があったようですが、それに答えることがなかなかできなかったのです。容器の中に出入りするエネルギーを見つけられないまま、とうとう時代は21世紀に入ってしまいます。おそるべし、マクスウェル! 時間の逆戻りを信じたい私たちにとっては頼もしいことこのうえありません。

ただし、その間にも多くの物理学者たちによって、さまざまなアイデアは出されてきました。その1つに、「情報」はエネルギーに変換されるのではないかというものがあります。

たとえば、レオ・シラードという物理学者は1929年に、容器に気体分子を1個だけ入れるという極端に単純化した「シラードのエンジン」と呼ばれるモデルを考えました。

【写真】レオ・シラード。アインシュタインとレオ・シラード(1898–1964、右)、アインシュタインと photo by egttyimages

悪魔は2つの部屋のどちらに分子があるかを観測し情報得ますが、このとき、わずかにエネルギーが消費され、そのため悪魔による観測でそれ以上にエントロピーは増大し、ゆえに全体の収支としては増大している!とシラードは主張したのです。

しかし、それから20年ほどのちにおこなわれた検証の結果、「シラードのエンジン」で悪魔がやるような観測では、エントロピーは増大しないことがわかりました。悪魔、しぶとい! がんばれ!!

とはいえ、そもそも熱力学の概念だったエントロピーが、情報というまったく関係なさそうなものとつながっていることがわかったのは収穫でした。これが、「情報熱力学」と呼ばれる新しく、その後に悪魔打倒を牽引する学問分野誕生のきっかけとなりました。

1961年、アメリカのコンピュータ産業を牽引するIBMで研究者をつとめるランダウアーが、悪魔に対抗するための新しいアイデアを提案しました。

悪魔が気体分子の速度を見きわめて小窓を開閉する作業では、見きわめた分子の速度を情報として記憶し、次にくる分子の速度と比較する必要があります。しかし、その記憶をためこんでいるといずれは容量オーバーとなってしまうので、定期的に消去しなければなりません。この「情報の消去」という仕事をするときにエネルギーがつかわれるので、エントロピーが増大するというのです。

この着想は、有力とみられました。そして2010年、ついにそのときが来ます。日本の鳥谷部祥一、沙川貴大らの物理学者が開発した世界で初の「マクスウェルの悪魔」再現装置による実験で、「温度の環境下で1ビットの情報を消去するためには最低でも、kT log 2の仕事が必要である」ということが示されたのです!

こうして、マクスウェルがこの世に生みだしてから、150年近くものあいだ命を保ってきた悪魔は、ついにとどめを刺されました(残念!)。エントロピー増大の法則は、無事に守られました。

しかし、話はこれで終わらなかったのです。

もしや、悪魔の復活!? もしそうなら、私たちの追い求める「時間の逆戻り」への道も拓けてきます。次回は、つい最近発表されたばかりの"最新の攻防"についてお話ししたいと思います。

この記事は、ブルーバックス 『時間は逆戻りするのか』より作成しました。

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